掲載日 : [2019-04-17] 照会数 : 7025
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<22>滋賀(芳洲庵)
[ 「芳洲庵」の内部(上)と芳洲の墓(レプリカ) ] [ ヒノキ造り書院風の「芳洲庵」門前 ] [ 「芳洲庵」内部の庭 ]
滋賀県が偉業たたえ生家に建立
米原から北陸本線に乗車して、約半時間ほどで雨森芳洲の生まれ故郷「高月」に着いた。駅の改札口付近には観光案内所があり、私はここで「雨森芳洲庵」の新しい情報を得た。
雨森芳洲は、1668年(寛文8年)に滋賀県伊香郡(現・長浜市)高月町の医師・雨森清納の子として生まれた。「俊良」「東五郎」「誠清(のぶきよ)」と名が変わり、「芳洲」と呼ばれるようになったのは晩年からである。
芳洲庵には、これまで2度訪れているが、2015年の2月のときは、村全体が大雪で覆われ、どんより雲の隙間から伊吹山のなだらかな稜線がクッキリ浮かんでいた。
芳洲庵の門前にそびえるケヤキは、幹周りが約6・6メートル、樹の高さは15メートルもある大木であった。建物はヒノキ造り書院風だった。
室内には儒学者・雨森芳洲に関係する書物がたくさん並べられていたので、私は平井茂彦著『芳洲先生』を購入した。そこには芳洲の幼いころから、88歳で亡くなるまでの生い立ちが記されていた。
16歳のとき京都で朝鮮通信使に出会い、初めて異文化に興味を抱いたこと。それから木下順庵の門下に入り儒学、詩、文章などを習得したことなどが書かれていた。また木下順庵の勧めで対馬に渡り対馬藩の藩主宋氏に仕えたことなど……。雨森芳洲は日本と朝鮮の懸け橋として、朝鮮通信使の随行員して2回(1711,1719年)も旅を共にしている。
雨森芳洲は、61歳のとき朝鮮との仕事を退いたのであるが、記録の大切さを訴えて対馬藩での経験を元にした異国との交流の心がけを書物「交隣堤醒(こうりんていせい)」として残している。それは「誠信(せいしん)の交わり」の重要性を唱えたものであった。芳洲の敬愛していた玄徳潤が、朝鮮政府の新しい建物を「誠信堂」と命名したことは、「国の交わりは誠信でなくてはならない」という雨森芳洲の言葉と共に、両国の人たちの心に響いたことであろう。
滋賀県は雨森芳洲の偉業をたたえて、1984年に「芳洲庵」を建立した。
2018年の桜が咲き始めたころ、私は再び芳洲庵を訪れた。前回と打って変わり晴天に恵まれ、道の脇を流れる澄んだ小川と建造物を写真に納めながら、雪から開放された芳洲庵の庭に辿りついた。
藤本巧(写真作家)