掲載日 : [2019-04-24] 照会数 : 7020
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<23>滋賀(彦根)
[ 朝鮮通信使が出入りした宗安寺の正門(上)と「黒門」 ] [ 「伝朝鮮高官像」のレプリカ ] [ 華麗な宗安寺の内部 ]
当時の面影残す宗安寺と周辺
薄衣(うすぎぬ)で作られた紗帽(さぼう)をかぶり、朱色の礼服である袍(ほう)を身に纏い、二羽の白鷺の文様が刺繍された胸背(きょうはい)と鼈甲(べっこう)の帯をつけた伝朝鮮高官像(でんちょうせんこうかんぞう)は、宗安寺が所蔵している。
その「伝朝鮮高官像」(彦根市指定文化財)を拝観したかったので寺務所で尋ねてみたが、残念なことに一般公開はされていなかった。書院の壁に掛けられたパネル仕立てのレプリカは、色あせたものだった。
その宗安寺は観光客で賑わう「夢京橋キャッスルロード」に面した、浄土宗の寺院である。朱に塗られた「赤門」と、もうひとつこぢんまりとした「黒門」。資料では朝鮮通信使の接待のためとはいえ、猪や鹿肉を仏寺の正門である「赤門」から運び込むことはどうかということで、新たに勝手口のような「黒門」が作られたという経緯がある。
書院は、明治36年(1903年)に改築縮小されたが、朝鮮通信使が出入りした大玄関は天保10年(1839年)に建造されたままの状態で残されている。
『檜の会』の会報には、「朝鮮通信使の三使の部屋は、書院奥の間で、そこには特別の書簡台を設けられ朝鮮国王からの国書が置かれ、またこの部屋の近くには、国書をのせて運ぶ輿の輿置所が設置された。…中略… 本堂の本尊は幕で覆われ見えなくして、すべて上官たちの居所や対馬藩役人の詰所に使用された。」
通信使随行員の記録として「宗安寺の屏風・布帳・什物(じゅうもつ)の華麗さは、陸路通って来た中で最上であり、食事には銀の匙(さじ)が用意され、その他提供される設備も全く豊富である」と『奉使日本自聞見録』(寛延元年曹蘭谷著)に書かれている。
朝鮮通信使は彦根を宿泊地としていたので、現在でも宗安寺の周辺には当時の面影を残す寺がある。ひとつは中官たちが宿舎とした大信寺。それから江國寺(こうこくじ)には、第6回目の朝鮮通信使の写字官・雪峯(金義信の号)が記した扁額が、本堂に掲げられている。
私はさらに、朝鮮通信使が歩いた彦根の城下町から芹川沿いを歩いた。
藤本巧(写真作家)
(2019.04.24 民団新聞)