掲載日 : [2019-06-26] 照会数 : 6767
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<28>名古屋(性高院、有松)静岡(清見寺)
[ 江戸時代の面影を残す有松 ] [ 清見寺の扁額 ] [ 上空から見た清見寺(左) ] [ 再建された性高院 ]
学者、文人らと夜を徹して詩文の唱酬
朝鮮通信使は大垣から美濃路を通って、宿館・名古屋大須門前町の性高院に泊まった。この建物は松平吉忠が生母宝台院の菩提を弔うために建立した由緒あるお寺であったが、1943年(昭和18年)に軍用道路計画のため千種区に移り、また1945年(昭和20年)には名古屋大空襲によって国宝の表門や伽藍などを全焼。朝鮮通信使関連の資料も焼失してしまった。
朝鮮通信使の資料によると、東海や北陸から学者、文人、町人たちがこの寺に押し寄せ、華やかな文化交流が執り行われたという。三使たちは一睡もできず、詩文の唱酬(しょうしゅう)に付き合わされたのである。
現在の性高院は、名古屋大学近郊の8階建てビルに本堂が再建された。この光景と異質に映る石碑「大雄山性高院」から、この寺の流転した歴史を感じずにはいられない。
そのあと私は、東海道の宿場町であった鳴海から有松を歩くことにした。鳴海も大空襲・水害に合い、江戸時代の面影がなかった。ところが「有松の一里塚跡」辺りから続く街道は、有松絞が江戸時代に栄えたことを物語る立派な絞問屋が続いていた。
街道沿の中町に「唐人車(からこしゃ)」の山車庫があった。ここでも朝鮮通信使の行列に模した祭りが、繰り広げられてきたのであろう。
名古屋から約200㌔。旧東海道に面したところに、朝鮮通信使の宿館であった清見寺がある。明治時代に鉄道が寺の境内に敷かれたことから、寺の外景が変わってしまった。総門を潜るのに急な石段を上らなければならない。その門に架かる扁額「東海名區」は、玄徳潤(第8回目の朝鮮通信使)によるものである。また境内の大門から本尊を安置する本堂にも、第六回目の正使(翠屏)の筆となる扁額「興国 朝鮮正使翠屏」があった。
仏殿内部に架かる玄徳潤による扁額「湖音閣」の下も、朝鮮通信使が書いた文章を、江戸時代の職人が白字に置きかえ刻んだ「懸板(かけいた)」も架かっていた。当初は外交的な文面が支流であったが、時を重ねるたびに文化的な内容へと変わっていった。清見寺には朝鮮通信使が残した扁額だけでなく、多くの書画なども残り貴重な足跡となっている。
増築された三方ガラス窓の潮音閣から三保の松原を望んだが、あいにくの曇り空だったのでレンズを境内に向け俯瞰した。
藤本巧(写真作家)
(2019.06.26 民団新聞)