掲載日 : [2020-01-01] 照会数 : 12239
時のかがみ「慶州西慶寺のこと」荒木潤(翻訳・執筆業)
[ 慶州西慶寺 ] [ 柴田団九郎(左)と諸鹿央雄 ]
植民地日本人の欲望の痕跡
慶州市街中心部に韓国の伝統建築とは趣が異なる、瓦葺きの木造建築物がある。植民地期に日本人が建てた浄土真宗西本願寺派の仏教寺院・西慶寺の本堂だ。現在寺院としての機能はないが、今や韓国にて数少なくなった日本式建物として文化財に登録されている。
旧朝鮮総督府庁舎が撤去された1995年を前後して全国的に当時の日本式建物は「日帝の残滓」として解体される趨勢だった。西慶寺も撤去する流れだったが、否定的遺物も「歴史の教訓」として残すべきだと地元の郷土史学者が中心になり保存運動が起こり、辛うじて残された経緯がある。当時朝鮮に渡って来た日本人たちは本人たちの生活様式や信仰を維持するために各地に神社と寺を建てた。西慶寺はその近所で大きな旅館を経営していた柴田団九郎によって1936、7年頃に建てられた。
柴田旅館は当時慶州を代表する木造二階建ての旅館で、長谷川好道総督や斎藤実総督も宿泊した記録も残っている。当時から慶州は金剛山とならぶ、指折りの観光地で、宿泊需要は大きく、柴田は大儲けし、地域の有力者に成長した。その羽振りのよさは1927年に柴田の還暦に当たり、3日間盛大な祝宴が続いたと地方新聞が報じる程だった。
しかし、柴田の富は旅館業のみで蓄積されたものではない。植民地期後半、慶州で少年期を過ごしたある老人が私に次のように語ってくれたことがある。
「柴田旅館の前には栗原という骨董品屋があった。日本人旅行客が土産物を物色しに、店に入ってくると、店主はその客の身なりや風采を観察し、その客が『上客』の雰囲気を醸していると、そっと近づき、『もっと値打ちのある骨董品をお求めでしたら、この裏にある柴田旅館の主を紹介しますよ』と耳元でささやいた。客が話に乗ってくると店主は柴田旅館に連れて行き、文化財収集家だった柴田団九郎に引き合わせた」
柴田はその客がさらに高価な骨董品を求めていることを察知すると、やはり近所にあった慶州博物館の館長・諸鹿央雄へ引き合わせた。諸鹿は慶州の歴史と遺跡を解説する卓越した話術と処世術で博物館長まで出世した人物だ。諸鹿は一方で慶州に密集する古墳を盗掘し貴重な文化財を密売し1933年にはその横行が度を過ぎ、警察に逮捕されるに至った。諸鹿の逮捕は現役博物館長の不祥事として当時大きく報じられた。
西慶寺に集う信者は400人余りで、そのほとんどが日本人だった。中でも柴田を筆頭とした有力商人が西慶寺を支えた。西慶寺は慶州の観光業と文化財の密売を通じて日本人が得た収益を基に設立・運営された宗教施設だった。
もちろん、純粋な信仰心で西慶寺に通う日本人信者も多かっただろうが、その裏では地域日本人の欲望が渦巻いていた。新羅文化財が脚光を浴びる慶州で顧みられることはほとんどないが、西慶寺は植民地期慶州の日本人社会の一端を垣間見せてくれる点で極めて重要な歴史の証人である。
(2020.01.01 民団新聞)