掲載日 : [2019-12-04] 照会数 : 7292
時のかがみ「金子文子と短歌」…キム・英子・ヨンジャ(歌人)
[ ぶどう畑に囲まれたのどかな場所に文子の歌碑はある ]
波乱に満ちた人生
三十一文字に刻む
今年、韓国映画「金子文子と朴烈」が公開された。大正時代に関東大震災後の混乱の中で検束され、大逆罪で死刑判決を受けた二人の出会いと裁判での闘いを描く。検束当時、彼らは21歳と20歳。死刑判決の直後、恩赦により無期懲役となった。朴烈は検束から23年間自由を奪われ、出所してからは民団の初代団長をつとめた後、帰国。彼の妻、文子は恩赦の4カ月後に獄中で自死した。
文子は取り調べで、家庭環境とそれによる社会の圧迫から虚無主義の思想を持ったと述べている。まず父と、それから弟、妹、そして母と離ればなれになり、親類の養女になると聞いて渡った朝鮮の家では筆舌に尽くせぬ苦難を味わう。9歳まで無戸籍だったこともあり、頭が良くて勉強が好きな少女は、まともに学校へ通えなかった。
貧しさだけでなく、親から捨てられたという思いと無籍者であったことは、人生の寄る辺なさを文子に刻みつけただろう。それが、私は私自身を生きるという信念にもつながっていったのではないか。
そして魂の同志である朴烈と出会った。私自身を生きなければ生の意味は無いと言う文子は、朴烈とともに生き、朴烈とともに死ぬことを望んだ。
映画の公開と前後して、彼らを詠んだ歌人の作品が発表されている。
さわやかな風吹く午後を
駆けてゆく朴烈なにもし
ていないよう 福島泰樹
三十年追い続けたる金子
文子我が人生の目標のひ
と 道浦母都子
文子は獄中で原稿用紙700枚に及ぶ手記を書いた。生い立ちから19歳での朴烈との出会いまでを記したものだ。学校に充分通えず20歳そこそこで綴ったとは思えない文章で才能は疑いようがない。同じ頃、不逞社の同志だった仲間に手紙で石川啄木の歌集の差し入れを頼んでいる。「少し歌作の稽古でもしようかしら?」「あの人のが好きだ。真似るなら、あの人のを真似たい」(『余白の春』瀬戸内寂聴)と。夜も昼もなく手記を書き続けながら、さらにうたを求めたのはなぜなのか。それは、うたとは何かという問いに通じる。
窓硝子外して写す帯のさ
ま若き女囚の出廷の朝
ふらふらと床を脱け出し
金網に頬押しつくれば涙
こぼるる
手記からは推し量れない獄中での心情を感じる。
文子の墓は韓国にある。生前本人が望んだとおりに朴烈の家の墓所に埋葬された。現在は聞慶市の朴烈義士記念館の敷地に移葬されている。しかし、その横に朴烈の墓は無い。山梨市牧丘町には文子の実母の生家があり、その敷地内には文子の歌碑が建っている。
逢いたるはたまさかなり
き六年(むとせ)目につくづくと見し母の顔かな
(2019.12.04 民団新聞)