掲載日 : [2019-12-04] 照会数 : 6654
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<34>(本誓寺と浅草本願寺)
[ 度重なる火災にあって移ってきた本誓寺(江東区) ] [ 通信使が宿館とした浅草東本願寺の内部(台東区) ] [ 江戸大名庭園の造園手法を残す清澄公園(江東区) ]
江戸で「国書伝達」の日を待つ
朝鮮通信使は、東海寺から歩いて40分ほどの位置となる江戸府内の入口「高輪の大木戸」を通り、江戸の宿館・本誓寺(ほんせいじ)に向けて華麗な行列を披露している。
この寺は、幕府の御用を務める寺であった。ガイドブックには、大江戸線「清澄白河」駅から徒歩約2分と記されていた。
私は地下鉄の改札口から慣れない携帯の地理アプリを起動させ、江東区清澄の本誓寺を入力してから方向指示に沿いながら地上に出た。そして現在位置を確かめた。
たった数分で着く距離ということで、携帯をカバンに戻して広い道路を無意識で歩いた。ところが本誓寺の標識がなかなか見つからない。私は再度地図アプリを立ち上げ到着時間を見ると、あと十数分だった。歩けば歩くほどその到着時間が増えていく。
そのときはアプリの性能を疑っていた。しかし東京スカイツリーが目に入ったとき、自分が目的地と反対方向を歩いていることに気がついたのだ。もし私が朝鮮通信使の先導者であれば、そく切腹となっていたであろう。
朝鮮通信使の馬喰町の本誓寺での宿泊は通算7回、天和2年(1682年)まで続いた。その境内の広さは、5700余坪だという。しかし度重なる火災によって、天和3年(1683年)から深川大工町(現在の清澄)に移ることになる。それに伴い通信使の宿館先は、浅草の浄土東本願寺となった。
それゆえ今回私が訪れた江東区の本誓寺は名称が残るだけで、朝鮮通信使は宿泊していない。境内に入ったが、こぢんまりしていた。私は向かいの江戸大名庭園の造園手法を残す広々とした「清澄公園」を、馬喰町にあったころの本誓寺に見立てた。
本山・東本願寺の記録によると、正徳元年(1711年)3月から幕府の命によって浅草の本願寺の改修が行われ、七月には完了している。その費用は本誓寺修復の約10倍だそうだ。いかに膨大な施設に改装されたかを物語っている。境内の諸施設に収めきれないものは、仮置き場を建てて下官を収容。また将軍への献上用となる鷹や馬などの建物も造られた。
しばらくの間(2週間からときには1カ月間)、朝鮮通信使は江戸に滞在して将軍への「国書伝達」の日を待った。
藤本巧(写真作家)
(2019.12.04 民団新聞)