掲載日 : [2022-04-28] 照会数 : 2328
在韓被爆者を下支え「市民の会」が創立50年
[ 記念集会で基調講演する元広島市長の平岡敬さん ]
【広島】「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」(市場淳子会長、事務局・大阪)創立から50年。同会は17日、広島市内で記念集会を開き、在韓被爆者を支えてきた半世紀にわたる活動を振り返った。総会では中国新聞記者だった60年代に韓国在住の被爆者を取材し、この問題にいち早く光をあてた平岡敬・元広島市長が基調講演を行った。会場とオンラインで計約220人が参加した。
韓国原爆被害者協会の調べによれば、会員総数1981人のうち「被爆者健康手帳」未所持者は48人だけ(2022年1月31日現在)。いまや韓国人被爆者の大半が韓日両国政府の支援を受けるまでに至った。駐広島総領事館の林始興総領事はこの日の記念集会に合わせ、「市民の会」をはじめとする各支援組織への感謝の言葉を寄せた。
韓国人被爆者は「65年(の日韓基本)条約で解決ずみ」として長い年月、日本政府の援護対象から除外されてきた。そもそも韓国に被爆者が在住しているという事実に関心をもつ日本人そのものが少なかったのだ。
「被爆者は日本人」という当時の一般的な日本人に共通していた意識の見直しを迫ったのが70年、原爆症の治療を受けようと釜山から佐賀県の港に密入国した孫振斗さん(17年87歳で死去)だった。孫さんは大阪市生まれで、広島市皆実町で被爆した。
孫さんは被爆者健康手帳の申請を却下され、処分の取り消しを求めて72年に提訴。これは在外被爆者として初めての試みだった。広島と大阪、東京を中心に全国で支援運動の輪が広がり、78年には最高裁での勝訴が確定した。この支援運動を担ったのが現在の「市民の会」を支える主要メンバーと当時、中国新聞社の記者だった平岡敬さんだった。
平岡さんは65年冬、韓日国交正常化前の韓国に入ってソウル市内に住んでいた被爆者6人にインタビューし、岩波書店発行の雑誌「世界」にもルポを掲載。スラム街で人知れずひっそり暮らす在韓被爆者の苦境を伝えた。韓国原爆被害者協会の立ち上げにあたっては綱領、規約づくりにも協力した。
平岡さんを動かしたのは生まれ育った韓半島への愛着があるようだ。ただ、それだけではないと次のように語った。
「在韓被爆者が韓国の社会でも無視されてきたのは戦争責任、植民地責任を一切考えようとしてこなかった私たちにも責任がある。歴史をきちんと認識し、日韓の被爆者が手をつないで核の非人道性を告発するべきだ」
孫さんが密航したことを知ると、被爆者健康手手帳の申請と同時進行で入管令違反で退去強制の危機にあった孫さんを救おうと支援運動も展開した。被爆者健康手帳の申請に必要な証人2人を広島市内で見つけたのも平岡さんと「市民の会」のメンバーだった。
記念集会で基調講演を行った平岡さんは「『市民の会』が被爆者の闘いを支えた」と高く評価した。この後、大阪と広島、長崎の各支部から今残る課題について報告があった。
「市民の会」は1971年夏、韓国原爆被害者協会の辛泳洙会長(当時)が大阪に来て在韓被爆者の窮状を日本の市民に訴えたのを機に大阪で結成された。会員はクリスチャン、仏教・天理教関係者、教員、学生らなど幅広い。
主な取り組みは①日本政府に対する補償要求②被爆者援護法を日本国内の被爆者と平等に受けられるようにするための裁判支援③被爆者健康手帳の取得支援④広島・長崎の三菱重工業に強制徴用されて被爆した韓国人元徴用工の支援など。
大阪に事務局を置き、広島・長崎・大阪にそれぞれ支部を置く。
(2022.04.27 民団新聞)