掲載日 : [2010-10-27] 照会数 : 6455
東アジアの交流絵巻四天王寺ワッソ 古代に学び未来を創る
大阪が「難波(なにわ)の津」と呼ばれていた古代の、日本列島と東アジアの交流を再現する「四天王寺ワッソ」が始まってから20年。在日同胞が中心となり、韓日両国の学識者や経済人の協力を得て創設された華麗な歴史絵巻だ。一時中断があり、規模もひと回り小さくなったとはいえ、在日同胞を真ん中にする祭りは健在だ。
試練克服 理念は健在
在日を真ん中に多文化共生めざす
大阪市の生野区、東住吉区、東成区などの一帯はかつて百済郡であった。旧猪飼野地区を流れる新平野川は百済川と呼ばれていた。現在でも百済交差点、百済本通り、百済変電所、JR貨物の百済駅などがある。
渡来の痕跡色濃い大阪
「四天王寺ワッソ」のヒロイン・阿加留比売(アカルヒメ)は、鶴橋駅近くの東成区東小橋にある比売許曾(ヒメコソ)神社の祭神であり、新羅から但馬国に降臨したとの渡来神話をもつ天日槍(アメノヒボコ)の妻とされる。百済郡に隣接して、新羅からの渡来集団も存在していた。
百済という地名がいくつも残り、古代渡来人の痕跡が色濃い地に、新たな渡来人として在日同胞が集住しためぐり合わせによって、古代の豊かな交流を偲ぶ「四天王寺ワッソ」は生まれた。まさしく、大阪に似つかわしい祭りである。
上田正昭氏(京都大学名誉教授)が89年、信用組合・関西興銀の理事長、李煕健氏から「同胞の次世代に自信と誇りを与え、あわせて大阪から文化発信をしたい」との相談を受けたのが事の始まりだ。博物館や記念館ではなく、多くの人々が参加意識をもって継続できる「祭り」という形式がいい、とも付言されたという。
仏教伝来から間がない593年に建立された四天王寺は、日本最古の仏教寺院であり、難波の津を訪れた東アジアの要人をもてなす迎賓館でもあった。聖徳太子ら要人が東アジアの有力人士と四天王寺で出会うという形式で、古代の交流を再現するとの方向が決まるまでに、さほど時間はかからなかった。
聖徳太子の仏教の師・慧慈(えじ)、同時期に渡来し彩色や紙・墨の製法を伝えた曇徴(どんちょう)ら高句麗の高僧、百済の聖明王、新羅の金春秋、渤海の大祚栄など、続々来訪する綺羅星のような歴的人物を聖徳太子、蘇我馬子、中臣鎌足などが迎える構成だ。
史実に忠実一大行事に
祭りとはいえ、歴史的事実を題材にするからには、登場人物はもちろん衣装や楽器、出迎えの作法などもあくまで史実に基づかねばならない。考古学の猪熊兼勝氏(京都橘女子大学教授)や金元龍氏(ソウル大学名誉教授)ら韓日両国の学識者多数の指導を仰ぐなど、時代考証には万全を期した。
著名な歴史学者や教育現場の教師たちから、生きた歴史教育の場としても素晴らしい、との反響を呼んだのも当然だった。船だんじりが大型6台、中型9台、担ぐ輿が60台、参加者が総勢3600人という大規模なパレードは、回を重ねるごとに注目を集め、わずか1・5㌔の沿道に50万人の観衆が押し寄せるなど、秋の大阪を彩る一大行事として定着した。
関西興銀破綻(01年)後の2年間、体制不備のため中止を余儀なくされたものの、その試練を乗り越え04年に復活を果たした。在日同胞を中核にしながら、多文化共生を生もうとする多くの日本人ボランティアが支えた。
これが可能だったのは、インターナショナルという言葉が持つ本来の意味を具現しようとする願い、古代の難波の津に学んで東アジアの未来を創ろうとする理念が共感を広げ、しっかり根付いていたからだ。
(2010.10.27 民団新聞)