掲載日 : [2020-03-11] 照会数 : 7365
北韓民主化に尽力、両名誉代表を追悼…「守る会」『光射せ!』特集号
[ 金民柱氏と萩原遼氏を特集した『光射せ!』 ]
金民柱氏 収容所体制を告発
萩原遼氏 金王朝3代と闘う
「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」(佐伯浩明代表、大阪府八尾市)は、同会発行の〝北朝鮮収容所国家からの解放を目指す理論誌〟『光射せ!』17号(2020年2月18日)で北の人権解放に尽くした金民柱、萩原遼の両氏を追悼した。2人とも同会の創設者であり、名誉代表当時の2017年10月と12月に合い次いで亡くなった。
金氏は済州道出身。異母兄弟ながら三男の弟・泰元さんが62年、同じく四男の弟さんも66年の北送船に乗船した。
泰元さんは金日成総合大学で地球物理学を学び、朝鮮労働党機関紙の「労働新聞」で紹介されたほどの優秀な成績をあげた。中央工業研究所に配属されたが、「しばらくの間、地方の学校への赴任が決まった」という73年の年賀状を最後に音信が途絶えた。
遠縁の兄が苦労の末、泰元さんと会って確認したところ、「日本の公安の手先」の疑いをかけられ、弟さんともども強制収容所送りになったことが分かった。金さんが泰元さんの死亡を知らされたのは、一足早く強制収容所を出所した四男から88年に届いた手紙を通じてだった。
手紙には「1980年に統制区域で死亡した」と記されていた。病名は「ペラグラ病」とも伝えられている。拷問で体力が弱ったうえに極端な栄養失調が重なったとみられている。
金さんは兄弟の「北送」に至った経緯と教化所・収容所送りの経緯を月刊誌に寄稿し、北韓の強制収容所体制と朝鮮総連の非人道的な扱いを実名で告発した。これを機に「守る会」の結成に動いた。
萩原さんは72年、しんぶん「赤旗」の平壌特派員として赴任中、「北送」の親友・尹元一さんの消息を探し回ったことが「規律違反」とみなされ、北韓当局から監視される身に。「赤旗」記者を辞めてフリーのジャーナリストとして活躍し、「北朝鮮国民と帰国者の人権解放と救済が必要だ」との意識を持つようになった。
『光射せ!』は萩原さん自ら発案し、編集人となって07年12月に創刊したもの。韓国の著名なジャーナリスト、趙甲済さんは「金日成三代と闘い死んだ『孤高のサムライ』萩原遼の物語」と題した「心からの思い」を寄稿した。
同誌の編集代表を務めた山田文明元共同代表は巻頭辞で「この追悼号は北朝鮮をめぐる問題や人権・人道問題に取り組む人たちにとって、たいせつな教訓に満ちたものになっている」と記した。
1000円(税・送料込み)。問い合わせは北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会(TEL、FAXとも072・990・2887)。
(2020.03.11 民団新聞)