掲載日 : [2019-10-01] 照会数 : 10453
裏切られた「楽園」…北送60年 呉文子さんに聞く<下>
自立した「在日民族」として日本の地で生きる
◆北に帰らなかったのは
幸いにも私と夫の家族や親族は北には誰も行きませんでした。だから、父も悩んだ末に本を出す決断をしたのだと思います。また、私も夫も、父の本があったからこそ、北に行かなかったのです。
私の父が『楽園の夢破れて』の著者である以上、北に行っていたら間違いなく殺されるか処分されていました。「父の割腹自殺」のお蔭で助かったのですね、結果的に。今思えば父に感謝してもしきれないほどの恩を受けたことになります。
◆あの帰国運動はなんだったのか
結局、脱北者まで出すという最悪の結果となりましたね。あの頃、私たちが描いていた社会主義というのは、夢であり、幻想にすぎなかったのです。
時々、こんなことを考えるんです。もしあの頃、北ではなく、南が帰国事業を推進していたら在日同胞は帰っただろうか…。帰国者のほとんどが南出身ですが、なぜか南からはそういったラブコールはなかったのです。「暖かい祖国の懐に帰って来い」と言ってくれたのは北でしたから。
「帰国者」は約9万3000人ですが、「帰国」事業が始まった1年間だけで約半数が北に行ったんですよ。あの頃は総連ばかりでなく、日本の保守政治家にいたるまで、「素晴らしい国」「地上の楽園」と喧伝していましたから、愚かにも信じて疑わなかったんですね。
初期の1年位まではそれなりに優遇されたと思うんです。でも2年目位からは、家族や親族に「涙の訴え」の手紙が続々と届くようになってきました。私にも自殺未遂をした人の奥さんや教え子たちから手紙が届きました。生活が苦しいから何でもいいから送ってほしいと。総連系の友人を通して衣類や時計やお金を送りました。
北を信じて「帰国」した友人たちや、日本人妻のことを思うとたまらなくなります。あれから60年、どんな思いで暮らしていたのでしょう…。
◆今の自身の立場
私は総連と決別当初は、どちらの組織にも属さずに、自由な立場で生きていこうと思っていました。91年1月25日、同人誌『鳳仙花』を創刊しました。在日女性たちの生活記録です。日々の暮らしの中で感じる喜びや悲しみなどを語り合うマダンが必要だと思うようになったのです。
創刊当時、在日女性たちが発行する同人誌は皆無でした。『鳳仙花』は、文字をもたないオモニたちの過酷な人生を、親の背中を見て育った2世たちが代わって綴った「身世打鈴」が多くの誌面を占めていました。2013年27号をもって休刊としました。
『鳳仙花』は、不充分とはいえ時代の証言集としての使命を果たしたと思います。何よりも在日女性による女性の同人誌の先駆的役割を担ったことの意義は大きいと思います。そして記録することの大切さを27冊の『鳳仙花』が如実に語っていると思います。その後在日女性文芸誌『地に舟をこげ』にも終刊まで編集委員として関わりました。
94年から96年まで、私が住んでいた調布市の女性問題広報紙『新しい風』の編集委員を務めながら、「隣の国の女性たち」というコラムを9年間連載しました。98年から99年まで調布市の「まちづくり市民会議」の諮問委員を2期務めました。
2001年には「異文化を愉しむ会」を発足させ、文化の違いが差別というマイナスイメージでなく、プラスのカルチャーとして日本社会に順応できればとの思いで活動しています。
私の今の立場ははっきりしています。韓国籍を取得し、頻繁に韓国に行き来しています。今年の秋夕にも夫の墓がある釜山に墓参に行きました。
私は南北が統一しても、どちらにも帰りません。「新在日民族」として、本国との交流や接点を大切にしながらも本国政府に従属するのではなく、自立した在日民族として日本社会に参加し、地域住民として共生共存していくことが私たち「在日」の課題ではないかと思っています。
次世代に受け渡すべく「在日」の遺産づくりのために地域の人々と手を携えながら、日本の地にしっかりと根を張って生きていきたいと思います。
(おわり)
(2019.10.02 民団新聞)