掲載日 : [2019-10-02] 照会数 : 7615
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<31>神奈川(箱根宿)
[ 第11回朝鮮通信使の一行が休憩した「松雲寺」 ] [ 徳川幕府が朝鮮通信使のために整備した旧街道石畳の道 ] [ 白水坂の石碑 ]
役人全員が土下座して関所を通す
申維翰が記した紀行文『海游録』を読んでいると、夜も深まってから朝鮮通信使は「三島」に着き、日の出と共に三島宿を出発している。このような強行軍に加えて、箱根越えという難行が待ち構えていた。雨森芳洲が嘆いている。「この嶺は奇険、馬をもってすれば我を傷つけるを恐れ、輿をもってすれば人を傷つけるを恐る。みずから労するに如(し)くはない」
私は「箱根関所」に行く途中、箱根西坂の中央に位置する三ツ谷新田の「松雲寺」を訪れた。朝鮮通信使(第11回目)は、この寺で休憩している。お寺は本堂と庫裡(くり)を改築して通信使を迎えた。
次の「元箱根港」行きのバスを待つ間、私は寺の周辺を散策した。この地域に三つの谷があることから「三ツ谷」と名付けたという説があるが、お寺から望む風景は、そのことを定説とするが如く奥深く崇高な眺めだった。
バスに乗って約30分ほどで「箱根関所跡」に着いた。文明のありがたさで、バスは大きく揺れたが冷房の効く心地よい峠越えだった。
平成19年(2007年)、徳川幕府が東海道に設けた「箱根関所」を復元した施設ができた。関所の役割は、江戸に入る武器類と江戸から出ていく人に対して特に厳しく監視するところであった。朝鮮通信使が大番所の新調された幕の前を通るときには、関所役人全員が土下座して行列を迎えたのである。もちろん関所改めはなかった。
再び『海游録』を引用すると、「山高ければ気寒く、気寒ければ残雪すること、あたかもわが朝鮮北土の長白山(白頭山)の如し」申維翰は感傷的になったのか……。
残念ながらこの日の富士山はご機嫌斜めで、姿を現すことはなかった。
さらに登る。国土交通省の「街道について」には、なぜ石畳を街道に敷くようになったかその要因が書かれていた。
箱根八里は東海道の最大の難所。ひとたび雨や雪などが降ると、旅人は泥まみれになってしまう。
朝鮮通信使(第3回目)の記録によると、街道に群生していた「箱根竹」を敷きつめたのだが竹は腐る。多くの竹と人手、そのためお金が必要となる。そこで幕府は、延宝8年(1680)に箱根峠から三島宿に至る西坂のうち、約10㎞を石畳の道にした。国道1号線に架かる所には、白水坂の石碑がさりげなく置かれていた。
江戸時代の箱根古地図には、箱根八里を記す茶色の太線。そこには朝鮮通信使の扁額がある「早雲寺」の印があった。私はその寺に向ってバスを待った。
藤本巧(写真作家)
(2019.10.02 民団新聞)