掲載日 : [2019-10-16] 照会数 : 7432
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<32>早雲寺(小田原)
[ 朝鮮通信使の扁額のある早雲寺は北条早雲の菩提寺だ ] [ かつて朝鮮通信使が宿泊した大蓮寺の本堂 ] [ 「朝鮮国雪峯」の署名がある「金湯山」の扁額 ] [ バス停唐人町 ]
唐人町」の言い伝えに往時を偲ぶ
箱根湯本駅から須雲川に架かる弘栄橋を渡る。昨日からの雨で水量が増していた。約10分ほどで北条早雲の菩提寺である早雲寺に着いた。この寺に朝鮮通信使の扁額があるというが、新しく改築された立派な門には扁額はなかった。
私は境内に入って本堂の周りを巡ったがやはり見当たらなかった。雨が急激に強く降り出してきたので、扁額の撮影を諦めてその門を出ようとしたとき、眼前のもう一つ格式のある門に気づいた。私は中門を惣門と勘違いしていた。お寺の屋号「金湯山」の文字が飛び込んできた。泥金で文字を浮き立たせた力強い文字の横に「朝鮮国雪峯」と記されている。
以前、鞆の浦の対潮楼を訪れたとき扁額「日東第一形勝」を入れて、瀬戸内海の多島海を撮影した。お寺の人にここの扁額の文字は墨の黒でなく白ですか?と尋ねた。すると「実は、前の和尚が逆光で字が読めないからということで、文字を白に塗り直したんですよ」と申し訳なさそうな説明を受けたことがあった。その後、扁額の文字色には制約がないことが分かった。
惣門の扁額を撮影すると、デジタルカメラのモニターには、軒下に「お化け」が映っていた。その現象は、雨が多量に降ったあとに起こる煙草の白い煙のような現象を言うのである。私は傘を広げて光をさえぎり、何とかその煙を消すことができた。
そのあと、小田原の城下町にある「大蓮寺」の本堂を撮影した。
慶長12年(1607)、第1回目の慶七松が書いた『海瑳録』には、朝鮮通信使がこの寺に宿泊したことが記録として残っている。また資料によると中国福建の葉七官という唐人が、大蓮寺を訪ねてきたことが書かれているという。乗船中に遭難して小田原に漂着した人であった。十余人の人たちが小田原に居ついたという。
だからいまでも小田原には唐人町という名が残っている。これが江戸期の小田原唐人町の起源となっている。
私は、三島のものとは言い伝えの異なった小田原の「唐人町」まで足を延ばしてみたが、バス停の看板「唐人町」しか見つけることができなかった。この町の名称も、いつか消えてしまうかも知れないと思い記録した。
藤本巧(写真作家)
(2019.10.16 民団新聞)