掲載日 : [2019-10-17] 照会数 : 8509
時のかがみ「勿忘碑」津川泉(脚本家)
[ 勿忘碑 ]
ラジオと共に歩んだ生身魂
日本のお盆に当たる韓国の秋夕の終った頃、ソウルを訪れた。台風の影響で晴天に恵まれなかったそうだが、その日は夢から覚めたような秋天が、とこまでも高く澄み渡っていた。
午前11時前、地下鉄9号線の国会議事堂前駅を降り、KBSを訪ねた。
玄関口の駐車場の中庭に移設された勿忘碑の石のオブジェは健在だった。
今からおよそ28年前の1991年9月9日。JODKの取材でたまたまソウルを訪れていた私に「勿忘碑の除幕式に朝放会(朝鮮放送協会OB組織)の招待者若宮義麿さんが来られなくなった。挨拶文を、取材でよくご存じのあなたに代読してもらいたい」と有無を言わせぬ要請であった。
勿忘碑は当時、KBS本館脇にあった。植民地時代末期の1942年、密かに海外の短波を傍受した罪で、大勢の韓国の放送人が投獄された事件を忘れまいとして、建立されたものだった。
全国で300余人が連行され、獄死者6人、受刑者56人に上った。
思いがけなく除幕式に参列することになった私は自著にこう記している。
「式当日、白い布のなかから現われたそれは、空に向かって突き出された、巨大な刃の尖端のように見えた。作者の撞氏は、竹の子が地中から出てくるような生命感を造形的に表現したと言っておられたが、私には花崗岩の大地から研ぎだされた、冴えざえとした刃に見えてならなかった」(『JODK消えたコールサイン』白水社93年刊)。
参列した旧知の顔ぶれの中に張道享(92)さんの温顔を見つけ、ご挨拶した。
今回の旅は彼が今年5月に刊行した著書『ラジオと共に生きた80年』(ストーリーテリングカンパニー19年刊)を受取り
にあがるのも目的の一つだった。
彼はソウルにラジオ放送局ができた1927年生まれ。14才でラジオ技術習得のために朝鮮無線工学院に入学。55年KBS入局。以来、ラジオと共に歩んでこられた。まさに生身(いきみ)魂(たま)である。
生身魂とは秋の季語で、盆は故人の霊を供養するだけでなく、両親を始め、生きている年長者に礼をつくす日でもあったことによる。
思えば彼のような生身魂にこれまでどれほどお世話になったか。拙いハングルで私が話しかけると流暢な日本語で返事を下さる数々の顔が浮かんで消えた。
張さんがご自宅に蒐集した膨大な数のラジオ機器を見せてもらったのも、除幕式前後の頃だったろう。
韓国に放送博物館を作ると意気込んでおられた彼を、その後、NHK放送博物館にもご案内した。
コレクションは今、ある大学に預けてあるとのこと。実現までにはまだまだ時間がかかりそうである。
「博物館の完成を見る前に、ここに納まりそうです」
張さんは新著の最終ページを開いて指さした。それは張家の草生す墳墓のカラー写真であった。
生身魂戞々(かつかつ)と靴ならし来て
田中裕明
(2019.10.16 民団新聞)