掲載日 : [2019-10-24] 照会数 : 7343
裏切られた楽園…北送60年 元朝総連幹部の証言<下>
[ 映画「キューポラのある街」では「帰国」の場面が登場した ]
自由奪われた帰国者たち…救いたい思い、ずっと
◆日本に残った理由
帰国事業では私だけが残り、両親と兄弟、そして近い親族も帰りました。家内の両親と兄弟も帰りました。
当時、私は教員で帰国を希望していましが、帰れませんでした。韓徳銖議長が「学校教員や総連幹部たちは一般同胞を一人残らず返してから帰るんだ」と「御布令」を出したからです。
両親は私一人を残して帰れないと言ったんです。親心ですよね。それで私が身を固めたら安心して帰ると思い、結婚しました。
父の場合は90%くらいは望郷の念で帰ったと思います。帰国前に父が「私は日本へ来て、あちこちの土木工事現場に行き、道路建設にも多く関わり、小さな橋もたくさん架け、トンネルもたくさん掘った。自分の祖国に帰り、橋1本でも架ければ、それは意味があるんじゃないか」と言い残しました。
私は当初、社会主義にあこがれていました。ですから帰国運動の話が出た時も賛成し、これは金日成の宣伝通り、資本主義から社会主義への民族大移動と信じ、多くの同胞を帰国させるべきと思っていました。
◆まず孤児を帰国
教員時代、孤児を早く帰国させた方が幸せになると思い、3人を帰らせました。帰国1週間前から私の家に泊まらせ、一緒に寝食をともにしました。帰らせたのは姉と弟2人の孤児です。弟は中学2年生でした。
後に私が北を訪問した時、私はこの子と咸鏡北道・会寧のホテルで会いました。
彼はただ、にやにやと笑いながら、「偉大なる首領様のお陰で、私はこんなに幸せです」「学校に通えて幸せです」とだけ語り、それ以外は何も言わないのです。この言葉だけを繰り返させたのです。
持ってきた記念品を渡しても彼は受け取ろうとしない。指導員が「もらいないさい」と言った後にようやく受け取りました。本当に悲しかったですね。
◆12回北を訪問
北には12回訪問しました。行くと、歓迎するからと酒を飲まされるんです。あれは上からの指示なんでしょうね。酒を飲ませて眠らせて、何も見せないようにするためです。ただ、こちらがいくらコントロールされていたとしても、これは変だと、本質が見抜けるようになるんです。
12回目の訪問は、両親と兄弟に私が朝総連を辞めることを宣言するためで、これが最後との決心で行きました。
両親と兄に会えたのはたった1時間。親の家へ初めて行った時は指導員がついて来ました。兄は誰もいない畑に私を連れて行き「分かっているか、あの運転手は、運転手だと思ったらいけないよ」と。それで私はピーンときたんです。
◆仲間同士は日本語
私は70年代に入り、朝総連の人間として北で集中的な洗脳教育を受けに行ったことがあります。それこそ「缶詰教育」です。忠誠の人間を作るためです。
70年代初期に北を訪問した時、私が来ることを知った教え子たちが2~3人訪れ、道端で会話しましたが、彼ら同士の会話は100%日本語でした。半分やけになってるんですよ。
私は怒ったんですが、彼らはそういう時にだけ、鬱憤を晴らすかのように日本語を話しているんです。使い慣れた言葉は簡単に忘れられませんから。
また、同級生に会った時は案内人(指導員)がついて来ないトイレに2人で入ると、彼に「言葉に気をつけろ、下手したら銃殺される」と言われました。
私は何のことか理解できないわけです。帰国して10年以上経っても、「朝鮮語習得ができていないのか」と自分なりに理解して帰ってきました。でもそのことが、ずっと引っかかっていました。
◆何回も騙される
私は朝総連に入ってから、こんなにもだまされていたと分かったのが30年前です。今も十字架を背負っていますが、何とか罪滅ぼしができないかと精一杯、自分なりに生きてきました。
日本にいる教え子も理解してくれますが、中には「先生は裏切り者だ」と言う子が今でもいます。
孫が朝鮮高校に通っていましたが、校内では私が朝総連を脱退したことをほとんどの人が知っており、孫は「お前のじいちゃんは裏切り者だ」って言われたんです。家に帰ると、子どもは正直なもので、私の前に座って「ハルべ(祖父)は裏切り者ですか」って聞かれました。ショックでしたね。
その後、孫は高校卒業後、突如、日本の大学に切り替えました。孫が大学4年生の時、私と息子たちと一緒に墓参りに行ったんですが、その時、孫が「あの時は(朝鮮学校の)先生がそう言ったから僕も言っただけで、ハラボジのやったことは間違いないと思う。分かっているよ」と言ってくれました。嬉しかったですね。
◆帰国運動は何だった
ある意味で、絶対的に間違っていた事業と言いたい。でも、その日暮らしさえ成り立たない貧しい同胞にとっては踊るように帰したんです。それは偽りない事実です。
しかし、騙す方はその時は良しと思って やっていたんです。帰国者たちは、自分たちの生活や生き方に迷っていたんです。帰国9万余人のほとんどが自由を奪われ、思っていること、話したいことを一切、言えないんです。彼らを何とか救ってあげたい思いをずっと持ち続けています。
私は2~3年おきに韓国の故郷を訪れます。そこには祖父の墓がぽつんと建っています。いつの日か祖父の墓の横に両親仲良く弔う日が来ることを信じています。
(2019.10.24 民団新聞)