掲載日 : [2019-09-10] 照会数 : 16444
裏切られた「楽園」…北送60年 呉文子さんに聞く<上>
[ 呉文子さん ] [ 呉文子さんの父が発刊した「楽園の夢破れて」 ]
「帰国」宣伝に熱中の時代に現地を見た父の疑問
「祖国は地上の楽園」との北韓当局と朝総連の虚偽宣伝および日本政府と政党の積極的協力と日本マスコミあげての北韓体制賛美キャンペーンのもとで推進された「北送」開始から60年になる。この「事業」で日本人妻を含む、9万3340人の在日同胞が北韓に渡った。彼らが待ち受けていたのは日本でよりもはるかに厳しい生活だった。当時、「帰国事業」の宣伝部隊として携わった呉文子さんに朝総連と北送、そして、元朝総連幹部だった父との葛藤などについて語ってもらった。(インタビュー形式)
◆北送開始当時の状況は
私が結婚した翌年に「帰国」が始まりました。当時私は社会主義の勝利は歴史発展の法則と信じ、帰国第一船が新潟港を出航する前夜祭のステージで、大合唱団をバッグに大舞踊叙事詩構成劇で、社会主義の祖国「地上の楽園」を讃え熱唱したのです。
音大卒業の年に結婚した私が、在日コリアンとして初デビューを飾ったのが奇しくもこの新潟でのステージでした。このステージには亡くなられた文芸評論家、翻訳家としても有名な安宇植先生もご一緒でした。翌日1959年12月14日、帰国第一船が新潟港を出航するのです。
当時、私は総連系の学校で週に3回、音楽講師として出向していました。そこで韓徳銖議長の娘たちも教えました。
結婚して間もなく当時朝鮮高校の学年主任だった夫(李進煕)が朝鮮大学に異動になりました。 私は女性同盟三多摩(現西東京)本部の宣伝部に籍を置き、主にオモニコーラス団の指導や、日本人に在日を理解してもらうための対外部の仕事を任されていました。
私は、若いオモニたちを集め、オモニコーラス団の指導に全力を注ぎ、徐々に団員も増えていきました。三多摩は総連幹部の多い地区で、幹部養成の「中央学院」のほか朝鮮大学があり金剛山歌劇団もありました。
オモニコーラス団のなかには、楽譜が読めるオモニもいて、どちらかと言えば当時としては学歴レベルの高いオモニたちが多かったですね。毎年開催された全国「芸術競演大会」では、私たちは毎回優勝していました。全国からもライバル視されていて、中央での慶祝大会には、私たちが出演することが多く、ずいぶん鼻を高くしていたものです。
結婚するまで在日同胞のオモニたちと触れあう機会が少なかったせいか、とても新鮮で充実していて毎日が完全燃焼していました。在日社会にフレッシュデビュー! 一点の曇りもなく「社会主義社会」を謳歌していた時期です。
◆「帰国」を肯定的に受け止めていたか
もちろん最初は。当時は「在日」は生活の基盤もなく、凄く貧しかったじゃないですか。日本も貧しかった時代ですが、加えて「在日」には民族差別があり二重、三重の生きづらい時代、そんな時、「祖国」から温かい手を差し伸べてくれたことがどれほど嬉しかったことか。
だから私は「帰国」事業が始まって以来、芝公園などでの集会に、まだ幼かった長男を連れて参加し、宣伝隊としてマイクを握りみんなを鼓舞しました。そんな役割をしていたこともあり、息子と私は有名になりました。雑誌『民主朝鮮』だったと思うのですが、写真が載ったほどです。
◆その思いに陰りをみせるきっかけは
当初父は北への「帰国」事業を反対していたわけではないんですよ。それは父、関貴星(呉貴星=元在日朝鮮人商工連合会理事、総連中央本部財政委員)が60年8月、「8・15朝鮮解放15周年慶祝使節団」24人の一員として北に約1カ月招待され、現実を見て来たことが大きな契機となりました。
慶祝使節団一行には参議院議員の安部キミ子を団長に、北を礼賛した『38度線の北』の著者・寺尾五郎もいました。
滞在中、清津に向かう車中でのこと、帰国した青年たちが寺尾に向かって「僕たちはあなたの本を読んでこの国にやって来たんだ。あなたの書いていることと全く反対ではないか。騙されて一生棒に振った僕たちをどうしてくれる」、と抗議する場面を目撃します。
さらには地元の岡山から「帰国」した友人たちとの面会さえも許されなかったのです。そればかりか、平壌の街を自由に歩くこともできない閉鎖社会だったと。父は日本に戻ってから、北の実状を朝総連側に訴えます。
「朝鮮戦争休戦からわずか7年、廃墟と化した国土の復興と再建の真っただ中で、ゆとりなどあるはずがないのに、『体一つで帰ってくればよい』『祖国はすべて用意して待っている』と欺瞞宣伝を繰り返しているが、「帰国」希望者には北の現実を伝え、厳しいけれども社会主義建設に身を捧げることを覚悟した人々が帰るべきだ」。
「物資のない、厳しい現実を受け止め、一本の釘や古着でも捨てないで大切に持ち帰るよう、楽園に帰るなどという甘い考えを捨て、現状をありのままに知らせるべきではないか」。
帰国協力会の幹事の一人だった父は、真実を隠して「帰国」させてはならないと、訴えつづけたのです。
しかし、「地上の楽園」へと沸き立っていた頃なので、「帰国」事業への妨害だと朝鮮総連から「反動」という烙印まで押され、激しく非難されました。北に骨を埋めたいとまで願っていた父でしたが、帰国を諦めるばかりか62年には、北の実態を告発した『楽園の夢破れて』=写真=を出版したのです。
朝日新聞を含め、日本のマスコミも諸手を挙げて、「素晴らしい国」「地上の楽園」と報じていましたから、私は疑わなかったんですね。ですが、帰国者の親族が北を訪問するようになり、北の情報が徐々に伝わり、「帰国」希望者が減少し、私も疑問を抱くようになります。(つづく)
(2019.09.11 民団新聞)