掲載日 : [2019-09-26] 照会数 : 11941
裏切られた「楽園」…北送60年 呉文子さんに聞く<中>
[ 父、関貴星 ] [ 父、関貴星が出版した『真っ二つの祖国』 ]
父と娘、絶縁10年…葛藤の末、遂に朝総連離脱
◆朝総連からの報復
夫(李進煕)は小平の朝鮮大学で歴史を教えていました。当時朝鮮大学では「金炳植旋風」が吹き荒れていました。金炳植は韓徳銖議長の妹の夫で、後に北に帰国し国家副主席となった人です
ご存知のように50年代末から70年代にかけて、総連内では金日成の主体思想が唯一思想となり、夫は連日の自己批判、相互批判という「思想総括」を強いられ苦しんでいました。
その原因の一つが私との結婚でした。私の父(関貴星)が、62年に北への帰国事業を批判し『楽園の夢破れて』、63年には『真っ二つの祖国』を出版したからです。間もなく、私たちは父と敵対する関係となり、10年という長い間親子の断絶状態が続きます。
親子の断絶という苦しい日々がどれくらい続いたでしょうか。ついに私は夫との離別を真剣に考えはじめていました。民族反逆者の娘婿では政治生命を奪われたも同然ではないか、彼の将来の為に別れるべきではないかと、父と夫との狭間で私の心は絶え間なく揺れ動いていました。
それを知った父は、弟を介して離婚して別れて帰ってくるようにと言ってきました。ですが、私たちには既に子どもが一人いましたし、夫は離婚を承知しませんでした。それでは私たちはどうしたらよいか?
北に「帰国」するしかないと決意します。
夫は大学卒論が「高句麗の壁画」でしたから、北の現場で研究したいと北への「帰国」を真剣に考えていました。それを知った父は、北に帰せば娘の生命は危ないと思い、父は、「割腹自殺」とまでいって「帰国」を阻止しようとしたのです。
まさに人生の岐路の真っ只中に立たされていた頃でした。一方父のこと、大学での教育のあり方などで悩みつづける夫の姿も痛ましいばかりでした。
66年、夫の初めての著書『朝鮮文化と日本』(朝鮮青年社)が理由も告げられないまま、出荷停止となり、朝鮮大学を辞める71年3月までの約6年間、彼は執筆停止となり、その上、連日「思想総括」を強いられ、怒りと苛立ちのなか必死に耐えていました。
68年頃になると、大学内は「文化大革命」もどきの嵐が吹き荒れ、同僚同士の間にも疑心暗鬼の空気が蔓延していました。
その上、学生が先生を監視し、講義などで少しでも思想的な「落ち度」があれば上部に通報していたようで、教師と学生たちとの信頼関係さえも崩れ去り、もはや教育の場ではなくなっていました。夫は日増しに食も細くなっていき苦悩の日々がつづき、精神安定剤無くしては日常が送れないほどでした。
父との絶縁から10年が過ぎた71年4月、20数年間、民族教育に青春を燃やしてきたにもかかわらず、自分の生き方に照らして北朝鮮の政治体制に幻滅、教育の場でなくなってしまった朝鮮大学を去りました。
◆教え子たちの今
夫が朝鮮大学にいたころ、土、日になると学生たちがよく遊びに来て、雑魚寝しながら祖国の統一や卒業後の進路についてよく語り合ったものでした。
2012年に夫が亡くなりましたが、当時の教え子たちも数人葬儀に参列してくれました。いまでも夫を慕って時々訪ねてくれ焼香してくれます。「あの時は先生を批判する立場に立たざるを得なかった」と。
今の北と同じで、体制の中で生きていくには上の言いなりにならざるを得なかったのだと今は理解できます。彼らは今、確固たる思想を持って北を支持しているわけではありません。今まで、生きていく道がそれしかなかったのだと思います。 結局、知り合いも同類の朝総連の人たちばかりですから。かといって民団には行けない、という心境だと思います。
◆父との葛藤
父との葛藤は10年間続きました。ある意味、10年間耐えたとも言えます。父との対立にピリオドを打つきっかけは、北の事情がどんどん伝わり、父の言っていることが正しかったと証明されたからです。
71年、朝総連組織から離脱してすぐ、父に詫びに行きました。それから15年後の86年、父は72歳で亡くなりました。
最近、父の2冊目の著書『真っ二つの祖国』を改めて読んだのですが、涙が止まりませんでした。父と私との決別の部分には、娘である私を思う父の心情があふれているんですよ。愚かにもその頃の私は知りませんでした。
父は当初、北の実情を正直に帰国者に伝えて、当人が納得して帰国を希望すれば帰国させるべきで「地上の楽園」と嘘を言って騙して帰してはならないと朝総連に何度も申し入れたのですが、まったく聞き入れられなかったので「最後の手段」として出版したのだと書いていました。
当時、10年間も親子の断絶がありましたが、その間私は夫の立場もあり、朝総連に属していました。
歴史学者である朴慶植先生も夫の同僚でしたが、「ふくろう部隊」という金炳植の配下に捕まり暴力を受けた事件は周知の通りです。また他の同僚(後に北に帰国させられた)は、スパイと汚名を着せられ、自分の潔白を証明するために自殺を図りました。その彼が帰国させられる直前に、「次は君の番だよ」と警告してくれました。
あの頃、私たちは団地に住んでいましたが、黒塗りの車がずっと監視しているんです。夫は出かけるときには必ず私に「もし、僕が帰ってこなかったら警察に届けなさい。僕の意志で北に行くことは決してない。だからこれをもって警察に行きなさい」との手紙を置いて行ったくらいです。
当時、作家の金達寿先生や歴史家の姜在彦先生ら文化人が朝総連と決別した時期で、夫も明治大学から和光大学に移り、『季刊三千里』の発刊に関わりました。夫は朝鮮大学を辞めたことで、自由に研究や社会活動に携わることができ、数多くの著書を世に出すことができたのです。
(つづく)
(2019.09.25 民団新聞)