掲載日 : [2019-09-26] 照会数 : 6747
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<30>静岡(三島宿)
[ 世古本陣跡 ] [ 「樋口本陣」から移築された圓明寺の正門 ] [ 朝鮮通信使の宿泊した「三島宿のにぎわい」 ]
郷土史資料が伝える三島の繋がり
伏見村(現清水町伏見)の宝池寺の正門の前にある一里塚は、修復されていたので時代の重みが感じられない。向かいの玉井寺側の一里塚は、榎木が失われ雑木に同化しているが、江戸時代の街道沿いの状態を保っていた。この一里塚の近くに朝鮮通信使の宿泊した「三島宿」を補完するために設けられた「通信宿」があったことを資料で見つけ喜んだが、探せど探せどその場所をつきとめることができなかった。時間を費やした炎天下での取材は、身体には自信を持つ私だが、疲労困憊の体で終わった。
その「三島宿」であるが、現在の三島市南本町にある。朝鮮通信使が本陣とした「世古本陣跡」は、三島大通りの歩道脇に置かれた小さな石碑だった。三島市郷土資料館を訪れると「三島宿のにぎわい」というコーナがあり、本陣の模型や絵図などが陳列されていた。私が見たかった「世古本陣の絵図」はなかったが、その絵図の資料によると正使と副使の部屋が個々に割り当てられ、厠までが備え付けらた実にきめ細やかな配慮を施した空間だったようだ。
それからもうひとつの本陣「樋口本陣跡」は、道路を隔てた向かい側のお店の外壁に説明板が飾られていた。ほかに脇本陣が三軒あるが、それらの場所の明記はなかった。
薬医門様式を残す圓明寺の正門は、「樋口本陣」から移築されたものであり、長圓寺の赤門は「世古本陣」から移されたものであった。
三島市の資料によると、長圓寺と第四回目の寛永13年(1636年)の朝鮮通信使との逸話が、掲載されていた。
朝鮮国王(国王の親書を持参した正使と考えられる)が来日し、世古本陣に宿泊した夜、ある方角に高僧がいるとの夢のお告げを受けた。国王が世古氏に尋ねると、その方角であれば長圓寺の誉れ高い正譽上人ではないかと告げた。国王は帰国後、高僧宛に数珠と袈裟を贈ったのである。長圓寺は、文化12年(1815年)に火災に会って、過去帳は焼失したが、本尊と国王から贈られた品々は守られた。今日でも朝鮮通信使と正譽上人との親交の証として大切に所蔵されている。
それから朝鮮通信使の下級官たちが、人馬を調達する問屋場(現三島中央郵便局)の周辺で宿泊したことから「唐人町」といういわれがある。
朝鮮通信使関係の著書などでは、あまり詳しく取り上げられなかった地域ではあったが、郷土史の資料を読み解きながらの取材は、これまでと違った角度から朝鮮通信使と三島の繋がりを知ることができた。
藤本巧(写真作家)
(2019.09.25 民団新聞)