掲載日 : [2019-09-26] 照会数 : 7153
時のかがみ「釜山に魅せられて」…桃井のりこ(編集者・プロデューサー)
通い始めて20余年
現地での名はドレミ
編集者として仕事をする中、自力でフリーペーパー『釜山びより』を発行するようになり、早10年。これを核に勝手に釜山PR大使として活動している。
この連載で釜山の話を書いてきたが、私がこのような活動を始めた理由にふれていないことに気がついた。最近の日韓情勢の報道を目に、心が重い日が続いている。だからこそ、一度、私と釜山の歴史を振り返ってみようと思う。
私が初めて韓国を訪れたのは、1991年のソウルだ。まだ、日本人の渡航には査証が必要だった時代。数回のソウル旅行を経て、1995年に家族で釜山を旅したのが、最初の釜山だ。当時は南浦洞周辺にも港町の風情が漂っていた。国際市場には活気と雑然が混在し、釜山タワーが街を見下ろしていた。家族で市内観光と慶州観光を楽しみ、焼き肉や海鮮物を堪能した。
その後、旅行記事の取材で、釜山に行く機会も増えた。当時の私は、釜山について素人同然。そんな私を取材先に居合わせた人が、区をまたいで、次の取材先まで案内してくれた。仕事上の知人が休日の朝、空港まで送ってくれたこともある。取材先で出会った同世代の女性とは、20年経った今も友情が続いている。
釜山の人は、私が遠慮しても「外国人では大変だから」と強引に助けてくれる。その強引さに釜山人の「情」を感じる。釜山へ行くたび、私の中に人々の情が蓄積されていった。それはソウルで受ける親切とは、少し違ったものだった。
2008年、私は釜山本の企画を持ち、出版社をまわった。LCCもなく、釜山への直行便はソウル行きより割高な時代。韓国旅行のガイドブックの大半がソウルであり、釜山は巻末に数ページというような状況。「なぜ、釜山ですか」の問いに「ソウルにはない魅力があるからです」と答える私だった。
ようやく、取引先の出版社の社長を説き伏せ、OKをもらった。即、本作りを開始。過去の部分取材とは違い、一冊まるごとの釜山の本だ。苦労や手探りもあったが、人々に助けられ、無事に出版にこぎつけた。
ある冬、私たち夫婦、義理の両親と妹で釜山を旅行した。友人は「あなたの嫁の役割を助けます」と、自社の車で、連日、観光案内をしてくれた。その気持ちに、言葉に表せないほど感謝している。
そのようなことを経て、日本人に釜山の魅力を伝えるため、フリーペーパーの発行を思いついた。それが『釜山びより』だ。フリーペーパーには広告が必要となる。毎号、広告主探しが大きな課題だ。これも釜山の友人知人の助けなしでは難しい。苦労を重ねる中、友人たちが韓国名をつけてくれた。桃井の桃は韓国語読みだとトなので、トから発想してトレミ?
ドレミ~。ドレミの歌のリズムに乗って、楽しく、みんなに親しまれるように、との思いが込められている。
ともあれ、釜山での活動を継続できるのも、夫の大きな理解があってこそ。心からカムサハムニダ。
(2019.09.25 民団新聞)