掲載日 : [2019-07-24] 照会数 : 6874
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<29>静岡(薩埵峠)
[ 朝鮮通信使も峠を越したルートをハイキング客が通る ] [ 晴れた日には富士山の美しさをたんのうできる難所の薩埵峠 ] [ 薩埵峠を越したところに由比宿がある ] [ 韓国の難所、聞慶鳥嶺 ]
世界記憶遺産選出で再照明
清見寺から道幅の狭い農道を歩き、難所「薩埵(さった)峠」に向かった。
峠を越えるルートは3つ存在していた。「親知らず・子知らず」と言われた下道は、峠の絶壁を通る。波が引いたその瞬間しか渡れない危険な道だった。しかし安政の大地震(1854年)で海岸の地盤が2mほど隆起。現在、JR東海道線が通っているあたりである。
それから中道は、朝鮮通信使が事故にあわないようにと、幕府が1655年に造った。今私が歩いている道は、1682年に東海道を整備したときの薩埵上道である。
1830年代ごろ広重が描いた絶景・東海道五十三次「由井(由比)薩埵嶺」。朝鮮通信使もこの峠から富士を望み、その美しさに驚嘆したことであろう。
晴れた日曜日は、大勢のハイキング客たちが通り過ぎ、富士山を背に自撮りをしていく。富士山に少し雲がかかっていたが、私も広重の版画の構図に重なるような場所を探した。興津宿から薩埵峠。それから朝鮮通信使が休憩した望嶽亭を通り過ぎ、2時間ほどで由比駅に着いた。
朝鮮通信使は、さらに箱根峠の旧街道を越えて江戸へと進む。
場所は韓国に移るが、朝鮮通信使は、漢陽(現・ソウル)から「鳥も飛んで越えるのが難しい峠」と言われる聞慶鳥嶺(ムンギョンセジェ)を歩く。以前に私もこの峠を取材したことがある。雪が積もる真冬だった。
観光客は人っ子一人いない。第一関門、第二関門(鳥谷関)、第三関門(鳥嶺関)と通り抜けるコースは、往復約4時間も掛かるということだった。
私が売店でお菓子と水を買って、スタートした時刻は午後2時を過ぎていた。日没が早い季節、電灯らしき物もなく、スピーカーから流れる流行歌がより切ない気持ちにさせた。余りにも急ぎすぎて肩からカメラを落としてしまったが、雪のクッションで壊れずに済んだ。
地元の人たちは「薩埵峠」を知ってはいても、通ったことがない人が多く、朝鮮通信使との接点が希薄であった。
ところが2017年に世界記憶遺産に選出されてからは、通信使が辿った道が人に知られるようになり、街道の認知度が広まって薩埵峠の地図には、朝鮮通信使のことも明記されるようになっていた。
藤本巧(写真作家)
(2019.07.24 民団新聞)