掲載日 : [2019-07-24] 照会数 : 6985
時のかがみ「歌わぬ母のアリラン」キム・英子・ヨンジャ(歌人)
忘れたはずの故国…病床で
私は子どもの頃、母の眠っている姿を見たことがない。朝起きて母のもとへ行くと、店や台所で立ち働いている母は私を着替えさせ、髪を梳かしてくれた。子どもの寝る時間は夜9時の決まりだったが、店の灯はまだ明るかった。店は早朝から深夜12時まで開けていた。物心がついてから、お母さんはいつ寝ているのだろうと思ったものだ。家族と食卓につくこともなく、手のすいた折に茶の間への上がりかまちに腰かけて忙しなくごはんを済ませるのだった。
母は1926年(大正15年・昭和元年)に日本統治下の韓半島・慶尚南道で生まれた。父に嫁いだのは太平洋戦争が始まった1941年。婚礼の日が初対面だった。日本から帰郷した父は1週間後には再び日本に戻り、残された母は3年間を婚家で過ごすことになる。迎えに来た父に連れられて初めて日本の土を踏んだ日、19歳の新妻はチマ・チョゴリに日傘のいでたちで船を降りた。それから戦争の終結、韓半島での南北分断・韓国動乱、韓日国交回復と続く時代を、日本で商業を営んで5人の子を育てた。
母はまた、泣かない母でもあった。母が泣くのを見たのは韓国から母方の祖母の死を知らせる手紙が届いた日だけだ。30年も会えないままだった母親の訃報に、中庭にひざまずいてアイゴー、アイゴーと地面を叩いた。
人前で歌うこともなかった。いっしょに「トラジ」のレコードを聴いた時も、身内の婚礼の席でも。ただ一度その歌声を耳にしたのが「アリラン」である。薄暗い土間で一人、ざるに広げた豆を選り分けながら、小さく低く口ずさんでいた。それはため息のようで、子ども心は何か不安になった。でも、そばに行ってはいけない気がした。
現在90代の母は近年は昔のことを語らない。思い出すと苦しいという。母国語は忘れてしまったとさびしがる。2か月前からは入院しており、体力がずいぶん落ちて言葉を発するのも大儀そうだ。付き添う姉や私が聞きとれないこともある。時々口を開けば、忘れたはずの故国のことばがわずかに混じっている。
ある日、母が私の目を見て「アリラン」と言った。ああ、そうだったのだ。せめてもの慰めに「アリラン」を枕元で歌ってみようかと思いながら、昔を思い出すので喜ばないかもしれないとためらいがあった。でも、母は聴きたかったのだ。
韓半島を代表するこの民謡は各地に多くのバージョンがあるという。代表的なものと「アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ…」で始まる密陽アリランを小さな声で歌うと、穏やかに聴いている。付き添うたびにこうした時間をもった。そうしたら数日後、母が私を見ながら「アリアリラン アラリガ」と口にした。つぶやきではあるが、初めて母といっしょに歌ったような気がした。
ブラインド越しの青空見つめいるふた月飲食(おんじき)なせざる母は
(2019.07.24 民団新聞)