掲載日 : [2020-04-11] 照会数 : 7352
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<39>栃木県(今市、日光)
[ 朝鮮鐘(日光東照宮) ] [ 朝鮮通信使今市客館跡記念碑 ] [ 神橋(日光) ] [ 三具足(日光東照宮) ]
壱万両もの大金かけ客殿新築
粉河寺の宿坊を夜明けに発った朝鮮通信使は、最後の宿営地である「今市」へと向かった。
日光東照宮までの行程は、宇都宮から、上徳次郎宿、大沢宿、今市宿となる。
現在の東武日光線「上今市」駅に隣接する杉並木公園内に「朝鮮通信使今市客館跡」を示す立派な石碑があった。この一帯を「唐人小屋(別称)」と呼んでいた。幕府は通信使のためだけに、此の場所にたった二泊だけの客殿として、壱万両もの大金を掛け新築した。
国の特別天然記念物である東照宮の杉並木は、松平正綱が寛永2年(1625年)頃より約20年の歳月をかけて、植栽したものであった。微かな光彩が漏れる荘厳な景観の中、雅な装束をまとった朝鮮通信使の行列は、さぞかし華やかであっただろう。
日光の大川に架かる神橋(しんきょう)は、将軍、天皇勅使(ちょくし)、修験者しか通れなかった。その橋を、朝鮮通信使は渡っている。
1643年、朝鮮通信使から家綱の誕生祝いに贈られた品が、東照宮にある。大猷院へ奉納された「銅灯」、それから覆屋(おおいや)の天井にから吊された「朝鮮鐘」。龍頭部分に小さな穴が特徴の鐘だった。家康が眠る奥の院・宝塔にある三具足(花瓶・香炉・燭台)。しかし、それは日本製のレプリカだった。文化9年(1812)に、大楽院からの出火で三具足は焼失したという。
私は以前、対馬の万松院でも通信使から贈られた「三具足」を見たことがある。資料によると、先の戦争(日中戦争~太平洋戦争)の時に「金属類回収令」が出されたが、3種類の大きさの「三具足」の内、一番小さい品だけがそれを免れたそうだ。
1636年、東照社(現・東照宮)の大造替(だいぞうたい)が終わったときだった。朝鮮通信使に徳川家の威光を示すため一行に、家康が眠る日光に幕府は一行の参詣を願った。だが予定になかった行動に、国王の許可もなく日程的にも無理があり、なかなか通信使は首を縦に振らなかった。
しかし交渉役の宗義成の苦慮する姿を見て「日光」参詣を承諾した。それは両国の親善のため、お互いの心を察してのことだった。
藤本巧(写真作家)
(2020.04.10 民団新聞)