ヘイトデモの温床に
関東大震災から91年。震災勃発の年の1923年12月、帝国議会での責任追及の声に、日本政府は「現在調査中」と答えたきり。真相調査を求める日弁連の勧告にもいまだ耳を傾けようとはしていない。教科書から朝鮮人虐殺の事実が隠蔽され、街中で民族差別をあおる排外主義的なヘイトデモが繰り返されているなか、あらためて真相調査を求める声が強まっている。1日には犠牲者を慰霊・追悼する式典が関東各地で営まれた。
各地で追悼・慰霊式典
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宝生寺で法要 慰霊の鐘9回
民団神奈川
民団神奈川本部(金利中団長)は1日、「大正一二年九月二日 虐殺韓国人諸霊位」と書かれた白木の位牌を祀る高野山真言宗・青龍山宝生寺(横浜市南区)で法要を営んだ。民団関係者ら50人余りが参列した。
宝生寺では、震災当時、身の危険を顧みず、遺体の収容や埋葬に携わった社会事業家の李誠七さんが犠牲同胞を供養しようとつくった位牌を引き受け、翌年から法要を営んできた。李誠七さん死去(1959年)後に民団神奈川県本部が引き継いで法要を行っている。
本堂での法要が続くなか、震災発生の午前11時58分にあわせて慰霊の鐘が9回鳴らされた。参列者は、この後、雨の降りしきるなか、「関東大震災韓国人慰霊碑」(民団神奈川が中心となり70年に建立)前に集まり、住職の読経とともに焼香した。
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儒教式の祭祀 参列者が大礼
民団千葉・船橋
民団千葉・船橋支部(李鍾一支団長)は1日、同支部内に祭壇を設け、李支団長をはじめとする民団役員ら40人が儒教式の祭祀を営んだ。
民団千葉本部から金鎮得団長と張恒星事務局長、このほか、各支部からも支団長多数が参席し、大礼を捧げた。
李支団長は追念辞で「蛮行が二度と繰り返されないように事実を語り継ぐ」と誓った。
千葉では当時、建設途中だった北総鉄道(現・東武野田線)工事で働いていた同胞労働者とその家族らが、流言飛語を信じた自警団によって虐殺された。船橋市営馬込霊園には船橋仏教会が1924年に建立した「法界無縁塔」と在日朝鮮人連盟による1947年の「関東大震災同胞慰霊碑」のふたつの碑が建っている。
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同胞団体を招き慰霊・追悼式典
埼玉県内3自治体
埼玉で犠牲者が特に多かった本庄市、上里町、熊谷市では毎年9月1日、市と町が民団と総連から関係者を招き、慰霊祭・追悼式を行っている。
本庄市の長峰墓地には約100人が参席。「関東震災朝鮮人犠牲者 慰霊碑」の前で吉田信解市長が、「人と人が信頼しあう地域社会を築いていく」と誓った。
上里町・安盛寺での慰霊祭には関根孝道町長をはじめとして地元の教育委員長、区長会会長、消防団長、商工会会長、民生委員・児童委員会の代表といった名士が顔をそろえ、「関東震災朝鮮人犠牲者 慰霊碑」の前で焼香した。
熊谷市の追悼式は市内のメモリアル彩雲で営まれた。はじめに富岡清市長が「悲しい歴史を後世に伝え、再び過ちを犯さないようにする」と誓った。144人が参列した。
それぞれの慰霊・追悼式では同胞団体を代表、民団埼玉本部の孫準監察委員が「責任ある住民として地域社会の発展に寄与する」ことを誓った。同じく、総連埼玉県北部支部の李龍泰委員長がお礼の言葉を述べた。
当時、地震と火災から逃れようと、埼玉県には1日夕方から続々と避難民が入ってきた。同胞らは県南地域で警察の保護検束を受け、中山道を通って徒歩や自動車で隣の群馬県方面に移送されることになった。やがて県北の地にさしかかったとき、熊谷・本庄・上里の地で警戒していた自警団と群衆に襲われた。犠牲者は少なくとも243人といわれる。
これは県内務部長が政府の指示に従い「不逞鮮人暴動に関する件」という移諜文を県内の1市9郡に出して警戒を要請したことが影響した。結果的に「朝鮮人が放火している」「井戸に毒を入れている」という流言を人々に信じさせたのだ。
(2014.9.10 民団新聞)