掲載日 : [2022-05-09] 照会数 : 5309
語り継ぐ同胞生活史…ウトロに「平和祈念館」多文化共生の象徴が竣工
[ オープンしたウトロ平和祈念館 ] [ 解放後の差別と貧困、劣悪な生活環境を伝える常設展示 ]
【京都】在日同胞の集住跡地、宇治市伊勢田町ウトロ地区に4月30日、「ウトロ平和祈念館」(田川明子館長)が開館した。水道もなく、豪雨があると畳の上まで水に浸かってしまうという劣悪な生活環境のなか、立ち退きの危機におびえつつ助け合ってきた確かな歴史を伝えている。開館式には駐大阪総領事館から趙成烈総領事、民団京都本部の金政弘団長らが駆け付けた。
「平和祈念館」は建築面積45坪の鉄骨3階建てで総工費1億7000万円。外光を取り込む明るい外壁は名古屋市の戦争と平和の資料館「ピースあいち」を参考にしたものだという。コンセプトは「ウトロに生きる、ウトロで出会う」。
1階が別名「ウトロカフェ」と称する出会いと交流の場。近隣に散在する住民が月に1度集まり、コーヒーを手によもやま話を交わそうと2013年2月から始まった「ウトロ・コミュニティ喫茶」を引き継ぐ。
2階が常設展示室。ウトロに集落(トンネ)を築くに至った歴史的な経緯と劣悪な生活環境、「朝鮮人とウトロという二重の差別」に苦しんできた住民の苦悩を、戦後の写真や生活雑貨など百数十点で伝えている。
ウトロには80年代半ばまで上水道が引かれていなかった。初期は井戸や手動ポンプで地下水をくみ上げていた。周辺地域の開発に伴って水質汚染が衛生上深刻な問題となっていた。当時、水くみに使ったモーターポンプを展示している。
冠婚葬祭などは民族の伝統を重んじていたことが、展示された祭祀セットや族譜、75年に撮影された葬儀写真などから伺い知ることができる。
在日2世の姜道子さん(45年生まれ)の役目は豚のエサをもらいに自転車で魚屋さんのアラを取りに行くこと。「日本の友だちに見つからないか必死やってん。好きな男にだけは見られたくなかったね」との談話を掲示している。
同じく余光男さんは解放直後の密造酒造りについて次のような談話を残している。「生活するために当時はムラのみんなが酒を造って売っていた。警察や国税庁の手入れが何回もあった。警察が地区を取り巻いて、俺ら学校にも行けへん」
3階が企画展示室。第1回は「ウトロに生きた人々」として故人11人を偲び、略歴を紹介している。
民団京都本部の金団長は地元宇治市出身。竣工記念式典であいさつに立ち、「ウトロへの無知から生まれる誤解を解く多文化共生のシンボルに」と期待を込めた。
松村淳子宇治市長も「在日も含め3000人の外国人のだれもが安心して暮らせる街づくりに取り組む」と約束した。
近鉄京都線「伊勢田駅」西出口600㍍。開館は金、土、日、月曜日の午前10時から午後4時まで。1階は無料。2、3階入館料は中学生以上300円、小学生100円、未就学児無料。
問い合わせは一般財団法人ウトロ民間基金財団(0774・41・7248)。
◆ウトロとは
第2次世界大戦中、国策として1940年から始まった「京都飛行場」建設のために集められた韓国人労働者が住む「飯場」と呼ばれる木造平屋建ての宿舎跡が原型。約100万坪の広大な土地に約40㌔にも及ぶ路線を設け、機関車とトロッコで造成工事に必要な土砂を運搬する大工事であった。
解放とともに韓国人労働者の大部分はこの地を去ったが、一部の約1300人がとどまってコミュニティーを形成した。日本の敗戦から40年が経ち、水道の問題など生活など環境の改善にようやく目が向けられようとしたころ、地権者が土地の明け渡しを求める訴訟を起こした。00年には裁判所から立ち退き命令も出て住民は追い出される危機に。
しかし、韓国政府がこの窮状に手を差し伸べた。07年に30億ウォン(約3億円)を支援して状況が一転。宇治市は韓国政府などの支援で買い取った土地にウトロ地区住民のために5階建て市営住宅を建てた。第1号の建物には18年から40世帯が入居した。次の建物も来春には完工する予定だ。