掲載日 : [2010-09-15] 照会数 : 5890
浮き彫りになる高句麗人の足跡 高麗神社文化財展で企画
[ 衛星写真を前に高麗王若光たちの足跡を説明する中野不二男さん ]
高麗郡建郡 大磯から日高まで
JST研究員 宇宙・人文学の研究成果を反映
【埼玉】武蔵国に高麗郡を開いた高句麗からの渡来人、高麗王若光(高麗神社の祭神)が現在の神奈川県大磯から内陸の埼玉県日高市まで北に向かってたどった建郡ルートが、宇宙・人文学の研究成果から明らかになってきた。独立行政法人科学技術振興機構(JST)研究員で、著名な科学・技術ジャーナリストでもある中野不二男さん(60)が、4年がかりで突きとめた。この研究成果は高麗神社(埼玉県日高市)で開催されている「高麗郷文化フェステイバル」のなかで展示している。
宇宙・人文学は衛星技術と歴史調査の融合を目指した比較的新しい学問分野だ。古文書の記述、古地図や絵図の描写に、陸域観測技術衛星ALOS(だいち)から得られる標高データと、近赤外線センサーを使ったデータを照合することによって新たに3次元のデータとして組み立て直すことができ、古代における地形や、人々の移動まで調べられるという。
中野さんは、神奈川県大磯にある高麗神社(現在の高来神社)と日高市内の高麗神社、群馬県の榛名山麓と長野県の北部からたくさん発掘されている高句麗文化に特有といわれる積み石塚古墳に着目。2次元の地図上ではつながりらしきものがみえてこなかったのが、衛星のデータを再構築した画像による「マクロの視点」からながめることで「つながりらしきもの、流れのようなもの」が見えてきたという。
展示説明によれば、高麗王若光は高麗郡建郡という朝廷からの命を受けて703年夏に大磯に上陸、建郡計画の司令部としたとみられる。これは大磯に高麗神社があることから「ほぼ確実」だという。大磯の高麗神社にはこれを裏付ける木遣り「権現丸」も残されている。
高麗王若光はしばらくの間、大磯にとどまり、朝廷からの指示を受けながら高句麗系渡来人1799人の指揮をとったもようだ。これらの渡来人はそれぞれ、各地の国司や郡司のもとで工具や農具を作り、馬を育成してきた技術者集団だった。それぞれの先進的な技術で開墾を進めていった。
最初の前進基地としたのが唐木田。さらに北上してあきる野、そして飯能を目指したとされる。あきる野には馬を育てた小川牧の遺構、飯能には製鉄が行われた元鍛冶の地名が残されている。飯能の入間川流域は砂鉄の採取が可能だった。続日本記によれば、武蔵国に高麗郡が建郡されたのは716年5月16日のことだった。
初期は東海から
一方、高麗郡建郡以前、6〜7世紀の高句麗からの渡来人は、どのようなルートで関東地方に入ってきたのか。中野さんは、富山にある高麗神社に着目、日本海(東海)ルートを提唱している。日本海の初夏の海流に沿って富山に上陸したという。中野さんは、「高句麗からの渡来人が高麗神社を建て、そこに基盤を構築するのはごく自然な流れ」と話している。
富山から長野、群馬へのルートは、各地から発掘されている古代高句麗の鉄製首飾りや馬具を着けたままの馬の骨などから裏付けられている。
展示は23日(9時〜16時)まで参集殿2階。問い合わせは高麗神社社務所(℡042・989・1403)。
(2010.9.15 民団新聞)