掲載日 : [2019-08-15] 照会数 : 30416
【寄稿】朝鮮人とアイヌ民族 歴史的なつながり
[ 今年5月に韓国で翻訳出版された石純姫教授の著書(表紙) ] [ 埋火葬認許書もなく朝鮮人やタコ労働者の遺体を埋めたとみられる現場(振内共同基地) ] [ 朝鮮人に鳥獣猟を許可する公文書(1883年) ]
植民地統治期をはるかにさかのぼる近代の極めて早い時期、過酷な労働から脱出した朝鮮人をアイヌの人々が支援し、定住を助けていたことが苫小牧駒澤大学の石純姫教授の研究で明らかになった。石教授は14年前、アイヌ文化伝承者の朝鮮人と出会ったことに衝撃を受け、歴史的なつながりが形成された過程について調査・研究を進めてきた。その成果をまとめた『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり 帝国の先住民・植民地支配の重層性』(寿郎社、2017年)は今年5月、韓国の語文学社から翻訳出版された。石教授が最新の研究成果の一端を本紙に寄稿した。
1870年(明治3年)、北海道平取町のアイヌコタンで朝鮮人男性とアイヌ女性の間に男の子が産まれている。後にこの朝鮮人2世の男性は、アイヌ女性と結婚したが、その女性の父親はロシア人で母親はサハリンアイヌであった。現在、アイヌとしてのアイデンティティーを持つ人々の中にも日本人、朝鮮人、中国人、サハリンアイヌ、ロシア人等多様なルーツを持つ人々がいる。
様々な境界を越えて、人々は移動と移住を繰り返してきた。多様なルーツを持つマイノリティーは、「国民」の歴史から排除され忘却されてきた。在日コリアンの形成過程は、通常考えられている以上に複雑で多様性に満ちていると考えられる。
今から14年前、アイヌ文化の伝承者として活躍されている女性が、実は朝鮮人であることを知った。ある文化の伝承者が全く異なる人種や民族であることは、珍しいことではないが、在日コリアンの私としても、全く聞いたことのないことであり、その歴史的なつながりについて知りたいと強く思うようになったことから、これまで全く語られてこなかった、アイヌ民族と朝鮮人の深い繋がりが明らかになってきたのである。
朝鮮人を家族同様に扱う
2015年、北海道立文書館から非常に貴重な史料を発掘した。明治16年(1883年)札幌懸勧業課農務係から朝鮮人に鳥獣猟の許可書を与えているという公文書である。
漂着も明治21年まであったとする記録もあるが、このような狩猟の許可申請がなされ、それを許可する公的文書の存在は、すでに北海道において朝鮮人が一定数、定住化していたことを裏付けるものと考えられる。文書には「本邦在留朝鮮人鳥獣猟免状ヲ請求スル時ハ遊猟免状ヲ下付シ総テ内国人同様ニ処分スルトス」となっている。
統計として記録されている朝鮮人の北海道での人口は1911年の6人が最初で、学生や漁業・労働者などだった。しかし、私の聞き取り調査からは、すでに1907年、徳島県鳴門・淡路から北海道の鵡川に馬喰として移住し、アイヌ女性と婚姻関係を結んでいる例が複数存在する。これらの人々は統計には記録されていないが、近代期の極めて早い時期に朝鮮人とアイヌ民族の深い繋がりの一端が現れている。
北海道沙流郡平取町は、かつて日本有数のクロム鉱山の密集地帯であった。戦時期、武器・車両の製造等に欠かせないクロムは、時局下軍需資材として重要な鉱物だが、北海道産のクロム鉱石は極めて高品位で全国産出量の6割を占めていた。これらのクロム鉱山に朝鮮人が従業していた正確な統計は存在しないものの、数多くの証言と戦後の定住化の実態からも、相当数の朝鮮人労働者がいたことは確実である。
重要な時局物資であったクロムは産出後、運搬のための鉄道敷設が急務だった。北海道鉱業鉄道が1922年から翌年にかけて開業していた金山線(沼ノ端~辺富内)は、クロム運搬のため幌毛志まで延長されることとなり1941年1月、辺富内‐幌毛志間の鉄道敷設が着工された。
この辺富内‐幌毛志間の隧道工事において、数多くの朝鮮人労務者が強制的労務に従事し、犠牲者を出したとされている。町道131号線とポロケシオマプ川に沿った幌毛志一帯は、かつて朝鮮人宿舎やタコ部屋が立てられ、過酷な労働現場の状況は、当時を知る地元の人々から多くの証言を得ることが出来た。しかしながら、その証言は平取町史などの公的記録に掲載されることは全くなかった。
北海道各地の強制労働の現場から、脱出を試みる朝鮮人も少なくなかった。そうした朝鮮人は、見つかると見せしめのために死に至る暴行を受けることが通常であり、脱出した朝鮮人を通報すれば、報奨金も与えられた。多くの日本人は、朝鮮人が逃亡したという警報を聞くと、灯かりを消して息をひそめていたという。
そうしたなか、アイヌの人々は、消えていた火をもう一度起こし、逃げてきた朝鮮人たちを家の中に迎え入れた。食事を与え、「今眠ってしまったら、あんたも捕まるし、私も捕まる。明日の朝早く、あの角の家から3軒目の茅葺きの家に行きなさい。その家はアイヌの家だから、きっと迎えてくれるだろう」というように、朝鮮人を匿い、次の脱出先を教えたという。
そうして、アイヌの家を転々とした朝鮮人が、やがてアイヌの女性と結ばれ定住化していくということが、数多くあった。そのようにして結ばれた二人の間に生まれた子どもたちは、決して少なくなかったのである。
なかには、朝鮮人を匿い朝鮮に帰るために馬車に乗せて、鉄道の駅まで運び、切符を買って渡したという話や、馬車の炭俵の中に朝鮮人を隠し、鉄道駅まで運んだけれど、逃がそうにも逃がしきれず、再び家に連れ戻し、自分の親戚と婚姻関係を結ばせたという話もある。「命を助けるのだ」と言って身内を説得し、朝鮮人を自分の家族にしたアイヌの人がいたのである。
また、富内線敷設の現場近く、安住地区の少し高台にあった住宅地には、よく逃げてきた朝鮮人が畑にいたという。それを見て怖がる子どもたちに向かって、アイヌの母親が「驚くことはない。同じ人間なんだから」と言い、食べ物をあげたり匿ったりしたという。この〝同じ人間〟という意識をアイヌの人々が持っていたということは、何にもまして非常に重要なことである。戦時期の教条的で一種の狂気にも近い政治プロパガンダに対し、自らの危険を顧みず他者の命を救うという行動は、国家に盲従する「国民」ではなく、人間としての自立した尊厳ある行為だといえる。
過酷な労働で多数の犠牲
1943年4月24日`平取村役場からの失火による大火で、124戸が全焼する大災害が発生した。この時に町の文書の大半が焼失したが、1944年~46年の間、平取町で埋火葬された朝鮮人11名の埋火葬認許書が存在する。そのうち、幌毛志の隧道工事や糠平鉱山関係で死亡したと思われるものは9件である。
埋火葬認許書から判明できることは、平取村大字幌毛志(ポロケシ)オマップ或いは番外地には川口組の宿舎があり、土工夫が1944年~1945年の2年の間だけでも5人死亡していること、その他、生まれたばかりの乳幼児も含まれていたことから、家族で居住していたということも考えられる。
川口組といえば1944年11月から1945年12月の最後の中国帰還まで、わずか1年の期間に969人のうち311人の死亡者を出している。中国人宿舎からイタンキ浜まで運ばれた遺体は最初は火葬されていたものの、やがて火葬の薪もなくなり、そのまま海岸や宿舎付近に遺体が放置されていたという。
その中で埋火葬認許書がある者は170人、ないものは141人である。川口組を含む埋火葬認許書のない中国人150人の内、141人が川口組で労務していた。
これほどの凄惨で過酷な労働状況と犠牲者に対する非情な扱いをしていた川口組が平取の幌毛志隧道を請け負っていたのである。元請けは地崎組だが、その下請けとして川口組が実際の現場で労務者を扱っていた。
平取ポロケシオマプ川口組での埋火葬認許書がわずかであっても、室蘭の例と同様に、認許書のない犠牲者が多数いたのではないかと考えられる。上述したように、数多くの朝鮮人犠牲者の遺体を近隣住民が目撃していた証言と共に、以下のような重要な証言が存在する。
「振内の共同墓地を整備していた業者がブルドーザーで整地していたところ、わけのわからない骨が大量に出てきたっていうんだ。あまりにも大量でちょせないほど(さわれないほど)だったので、ブルドーザーでそのまま埋めて山にしたっていうんだな。自分はその業者の人から直接聞いたんだけど、もうその人は20年も前に亡くなってて、知っているのは自分くらいじゃないかな」(墓石店経営A氏、2013年8月15日聞き取り)
その現場は、振内共同墓地の中央部分に位置し、平取町と日蓮宗の無縁碑から30㍍ほど離れた場所にあり、直径2㍍ほどの、やや小高く盛り上がった土饅頭のような盛り土には草や小さな木で覆われている。振内の共同墓地と川口組飯場は、ちょうど室蘭の中国人収容所とイタンキ浜までの距離とほぼ同じである。ここに朝鮮人やタコ労働者の遺体が埋火葬認許書もなく埋められた可能性は極めて高いと考えられる。
この証言を受け、私は墓地整備条例に基づく墓地整備の報告書等に関して、平取町公開条例に即して情報開示請求を平取町長宛、提出した。後日、役場から提示されたのは、他の墓地に関しては、詳細な報告書だったが、振内共同墓地に関するものは、2010年に建立した無縁碑の写真のみで、報告書はないとのことだった。
死や魂の物語ほど、ナショナリズムの強固な枠の中でしか語られない。平取のように郷土史や墓地等の記憶の表象は、常に注意深く周到に朝鮮人を排除してきた。アイヌの遺骨問題も同様である。常に、日本人の死や魂だけが語られ、記憶され、表象されてきた。
「国民」を超えた「人間」愛
先住民アイヌと植民地の被支配民族である朝鮮人が、アイヌコタンと強制労働が交錯する場所で出会い、共に生きてきた事実は、北海道での埋もれた歴史だった。
アメリカにおいても過酷な労働現場から脱出したアフリカ奴隷たちがインディアンに助けられ、文化的にも人種的にも共存し深い繋がりを現在に至るまで持ち「ブラックインディアン」としてアイデンティティーを持つ人々もいる。アフリカ奴隷を所有した先住民も存在し、ヨーロッパ人経営のプランテーションとも異なっていた。その関係性も非常に複雑で重層的であり、単なる共生や協力の歴史だけではない。
アメリカでも、つい最近まで「隠された遺産」だった。このような複雑な先住民と植民地支配の重層性は、帝国の普遍的な暴力の構図といえるのではないだろうか。
戦時下の北海道において過酷な強制労働の現場から脱出した朝鮮人たちを、アイヌの人々が匿い助け、共に生きた。現在からすればそれはヒューマニズムや美談として語られてしまいがちだが、その背後には近代史そのものが孕む非人間的な収奪と抑圧と人間の分断の歴史があったことを記憶しなければならない。
それと同時に、アイヌの人々のそのような行為が当時どれほど危険を伴うものだったかについて想像することが必要である。
なぜ、アイヌの人々は、そのようなことが出来たのか。脱出してきた朝鮮人を「同じ人間だから怖がるな」という何気ない言葉を発するその精神性にあるだろう。「同じ人間として」食事を与え、匿い、共に生きる道を選ぶ。それが自らの命を危うくするものであったとしてもそれが自然の行為だと思えたことは、やはりアイヌの人々が「国民」ではなく「人間」であったからである。
北海道における先住民アイヌと植民地支配者である朝鮮人の繋がりは、従来のアイヌ像を覆すものであると同時に、「抵抗」と「協力」の狭間で生まれた人間としての「正義の行為」ないし奇跡的な「希望の行為」として、長く記憶・記録されるべきものであろう。
表層的には、均質で単一な文化・社会を形成していると思われる日本にも、多様なルーツを持つ外国人や様々なマイノリティーが存在している。
しかし、そのマイノリティーは個別実体化したものではなく、重層的で複雑なものである。このような重層的なマイノリティーの形成過程を明らかにすることは、近代におけるアイヌ史の見直しとともに、在日コリアンの形成過程においても、新たな視点を提示するものと考える。
そして、それは、日本社会・日本文化の多様性という視野からも新たな展開をもたらすだろう。
錯綜したグローバリズムの中で、人々は分断され、強固な排外主義が拡大し、紛争が作り出されている。故郷から引き剥がされ、移動を繰り返す人々との連帯と協力が、資本や軍事力の暴力が鬩ぎ合う世界とは異なる、多様で豊かさをもたらす世界を再構築する可能性となりえるのではないだろうか。
(石純姫・苫小牧駒澤大学教授)
(2019.08.15 民団新聞)