掲載日 : [2022-01-19] 照会数 : 3576
SDGsと在日社会、持続可能な発展へ準備を…【寄稿】金慶珠東海大学教授
[ 金慶珠東海大学教授 ]
多様性の時代に
21世紀は多様性の時代と言われる。国連が定めた「SDGs(持続可能な開発目標)」が近年大きなトレンドになる中、地球レベルでの「生物多様性」、社会レベルでの「多文化主義」、企業レベルでの「ダイバーシティー」など、多様性の意義を強調する言葉は日常生活でもよく耳にするようになった。しかし、この日本社会において、まさにその多様性の象徴となるべき在日社会がその意味を正しく理解し、行動に移せているのかを考えると、やや疑問でもある。
そもそも国際社会において「多様性」の概念が大きく注目され始めたのは、1990年代の冷戦が終わりを告げたころに遡る。東西冷戦の陣営対立が終わりを迎えるとほぼ同時に、世界は新たな政治・経済・宗教・人種・民族などの対立軸の下、戦争から紛争の時代へと移行していった。自民族中心主義と訳されるエスノセントリズムの台頭は世界各地で対立を生み、内戦や紛争、そして多くの難民を発生させながら今日に至っている。
こうした葛藤を克服すべく、世界に先駆けて1970年代から「多文化主義」政策の導入を進めてきたカナダやオーストラリアでも民族間の対立が解消したわけではない。
もう一つ注目されるのは、1992年にブラジルのリオデジャネイロで開かれた「地球サミット」である。正式名称を「国連環境開発会議」というこの会合では、ほぼすべての国連加盟国やNGO、産業界の代表が参加し、「持続可能な発展」という共通理念のもと、地球温暖化に対する取り組みを規定した「気候変動枠組み条約」が調印された。
また、1972年に出された「人間環境宣言」に基づいて「生物多様性条約」にも調印し、地球上のあらゆる生物種の多様性とその生態系を保存していくことに合意している。
こうして振り返ると、自然科学の領域であれ、政治・経済的な社会科学の領域であれ、「多様性」の問題は、われわれ人間の相互依存的な存在としての環境に注目していることがわかる。
自然の生態系が複雑でありながらも多様な種の相互作用によってその調和が保たれているように、人間社会もまた多様な人種や宗教、または文化共同体としての民族やコミュニティーが互いに尊重し合う制度や規範が機能してこそ、その平和と持続可能な発展が実現できるという信念に基づいている。
では、こうした多様性に基づく自然や社会の調和と平和は我々の信念、すなわち人間に備わっている性善説的な道徳や倫理観によって実現可能なのだろうか?勿論そうではない。古くは1970年代から注目され、1990年代になってようやく世界的な広がりと認知度を得た「多様性」をめぐる動きは、むしろ人間に内在する性悪説的な無節制さや残忍な破壊本能に注目している。
過去の20世紀を振り返ってみても、二度にわたる世界大戦とそれに続く冷戦を経て、21世紀には新たな紛争とテロ、そしてパンデミックという不確実性の時代を迎えている。この過程において人類は相互依存ではなく相互不信を、尊重ではなく差別を、和解ではなく排除を通じて互いをけん制しながら競争し、こうした競争に打ち勝つことこそが国家や民族の栄光につながるといった信念を貫いてきた。
人間社会を含めた自然界の摂理とは実に複雑怪奇で、人類の進むべき道のどれが正しいのかを容易に判断することはできない。多くの生物種が絶滅またはその危機にさらされ、自然環境が破壊された一方で、貧困を克服し、技術の発展を謳歌する豊かな時代を築いてきたのも事実である。
しかし、我々が突き進んできた道のりが、過去100年以上にもわたって自己中心的な生存方式に埋没していたとするならば、少なくとも今一度、過去とは異なる「持続可能な発展」を通じた共存が問われていることに耳を傾けるべき時点に来ている。
変化を担う責務
日本社会の変化の中で、在日社会も多くの変貌を遂げてきた。根強い差別と排除に対抗し、その正当な権利獲得のための努力が大きな実を結んでいる。他方で、日韓関係における市民社会の交流をリードし、草の根レベルの友好関係を築いてきたという自負もある。
しかし、こうした輝かしい歴史の傍らで、時代はまた変わりつつある。国際社会の道標が「多様性に基づく持続可能な発展」を示している今、我々にその準備ができているのだろうか?日本社会の多様性を象徴する在日社会自らが、まずは内部の様々な世代やバックグラウンド、考え方の違いを抱えた構成員の意見に耳を傾け、互いを尊重し、ひとつとなる「持続可能な発展」を目指す努力を払うべきではないだろうか。誰よりも懸命に生きてきた在日社会だからこそ、その変化を担う責務も大きいといえる。
(2022.01.19 民団新聞)