今や「K‐POP」というジャンルを築き、世界を制したのが韓国大衆音楽だ。「流行歌」と呼ばれていた韓国の大衆音楽は、100年以上の歴史を持つ。時代の移り変わりを鏡のように映し出した韓国の大衆音楽は、韓国社会を先導する役割を担って発展してきた。
韓国大衆音楽が本格的に始まったのは日帝植民地時代の1930年代で、留声機(蓄音機)レコードが様々なジャンルに分類されて発売され、多くのレコード会社も設立された。初期の大衆歌手として蔡奎燁や李花仲仙、李愛利秀、全玉、王寿福、南仁樹、李蘭影、金貞九、李銀波などが多数登場した時期でもある。
こんな中、今で言う韓国歌謡曲の「懐メロ」は1934年に発表された「他郷暮らし(孫牧人・作曲、金陵人・作詞、高福寿・歌)」から始まったとも言える。
この歌は、生活のために異郷に暮らす在日同胞1世たちの哀しみを代弁し、その心を慰めてくれる唯一の歌だった。故国における生活基盤を失い、1945年の祖国光復後も母国に帰ることができなかった在日同胞1世たちは、韓国の懐メロを生涯にわたり愛し続け、心の励みとした。
哀調を帯びた懐メロの代表的な曲調は、かつては「演歌」とも呼ばれていたが、その後、「トロット」というテンポを速め、明るく陽気なものにも変わっている。この変化は、韓国社会の高度経済成長と都市化に対応している。
しかしながら、韓国の懐メロを単に貧しき時代の遺物とみなすことはできない。故郷を離れ、肉親と離ればなれになった同胞も数多い。懐メロを聞き、歌いながら流された同胞たちの涙と汗が、今日の韓国の繁栄と在日同胞社会の安定の基礎を築いたことを忘れてはならないからだ。韓国の懐メロは、まさに大衆歌謡と呼ばれるべきものであって、古典民謡とともに、大いなる歴史遺産と言える。
特に、民団が「在日同胞版の離散家族再会事業として」1975年から開始した朝総連同胞対象の母国訪問団では多くの朝総連同胞が故郷を訪れ、生き別れになった肉親との再会を果たした。韓国政府も後押しした同事業のソウルでの歓迎会では、当時の大物歌手が大挙出演して韓国の懐メロなどを披露する「慰安公演」を企画し、参加した同胞の涙ぐむ姿が見られた。
今回は、民団や同胞らが集う、花見や宴会の場で在日同胞らが好んで歌う、代表的な韓国の懐メロの中から数曲を抜粋し、紹介する。コロナ禍で巣ごもり生活が続く中、ユーチューブやCDなどを利用してマスターできれば、潤いのある生活になるのでは。
<귀국선>帰国船
1946年
歌:李寅権
作詞:孫露源
作曲:李在鎬
돌아오네 돌아오네 고국산천 찾아서
얼마나 그렸던가 무궁화 꽃을
얼마나 외쳤던가 태극 깃발을
갈매기야 울어라 파도야 춤춰라
귀국선 뱃머리에 희망도 크다
帰って来る、帰って来る、故国の山河を尋ねて
どんなに恋しかったか無窮花の花を
どんなに叫んだか太極の旗を
カモメよ鳴け、波よ踊れ
帰国船の舳先に希望も大きい
1945年8月15日の祖国解放とともに、約300万人に及ぶ海外移住同胞の帰国が始まった。日本からは150万人以上が超満員の連絡船に乗った。だが、祖国は南北分断と政治的混乱、そして貧困にあえいでいた。母国に生活基盤を求めることができなかった60万の同胞がそのまま日本にとどまることになる。戦後の在日同胞には、新たな試練が待っていた。
<눈물 젖은 두만강>涙にぬれた豆満江
1938年
歌:金貞九
作詞:金用浩
作曲:李時雨
두만강 푸른 물에 노 젖는 뱃사공
흘러간 그 옛날에 내 님을 싣고
떠나던 그 배는 어디로 갔소
그리운 내 님이여 그리운 내 님이여
언제나 오려나
豆満江の青い水に櫓をこぐ船頭
流れ去ったその昔に私のあなたを乗せて
離れていったあの船はどこへ行った
恋しいあなた~恋しいあなた~
いつになったら戻るのか
豆満江は白頭山を水源とし、中国との国境を東海に注ぐ。1919年の「3.1」独立運動以降、間島地域では韓人村を基盤とする亡命者たちの抗日武装闘争が活発化した。この恋歌の背景にも、そうした厳しい状況が反映している。
1972年から民団が推進した朝総連同胞母国訪問団の歓迎会で金貞九氏が「離散家族の郷愁」を込めて慰労した。
<이별의 부산정거장>別れの釜山停車場
1953年
歌:南仁樹
作詞:湖童児(兪湖)
作曲:朴是春
보슬비가 소리도 없이 이별 슬픈 부산정거장
잘 가세요 잘 있어요 눈물에 기적이 운다
한 많은 피난 살이 설움도 많아
그래도 잊지 못할 판자집이요
경상도 사투리에 아가씨가 슬피 우네
이별의 부산정거장
霧雨が音もなく、別れが悲しい釜山停車場
さようなら、お元気で、涙に汽笛泣く
つらい避難暮らしに切なさ募り
それでも忘れえぬ板小屋よ
慶尚道なまりに乙女がすすり泣く
別れの釜山停車場
悲痛な民族離散をもたらせた韓国戦争。この歌が出た1953年7月27日の休戦で人々は臨時首都の釜山から、家族の安否を求めて故郷へと散っていった。この歌には、避難先の釜山で出会った恋人たちの別れを惜しむ思いが込められている。
<목포의 눈물>木浦の涙
1935年
歌:李蘭影
作詩:文一石
作曲:孫牧人
사공의 뱃노래 가물거리며
삼학도 파도 깊이 숨어드는데
부두의 새악씨 아롱젖은 옷자락
이별의 눈물이냐 목포의 설움
船頭の舟歌もとぎれとぎれに
三鶴島の波間深く消え入りて
埠頭の新妻のそぼ濡れし裾
別離の涙か、木浦の悲しみ
木浦は1897年の開港と1914年の湖南線(大田~木浦)の開通により、物資の集散都市となった。文一石も李蘭影も木浦の出身者。植民地下で韓国最初の大衆歌謡作曲家、孫牧人は前年の1934年に「타향살이=他郷暮らし」を大ヒット。
遠く故郷を離れ、離散家族として暮らす在日1世たちにとっても、その痛切な思いを代弁してくれる歌だ。孫牧人は2008年、戦時中に軍歌を作曲したとして親日派人名辞典に記載されたが、多面的な歴史的真実としては、韓国大衆歌謡史に欠かせない「なつかしのメロディー」だ。2番に「300年の恨み」とあり、植民地への抵抗を示している。
<단장의 미아리 고개>断腸のミアリ峠
1956年
歌:李海燕
作詞:半夜月
作曲:李在鎬
미아리 눈물고개 님이 넘던 이별고개
화약연기 앞을 가려 눈 못 뜨고 헤매 일 때
당신은 철사줄로 두 손 꼭꼭 묶인 채로
뒤돌아보고 또 돌아보고 맨발로 절며 절며
弥阿里、涙の峠 貴方が越えた別れの峠
火薬の煙の前を遮って、目を開けずさまよう時
貴方は針金で両手をきつく縛られたまま
後ろをふり返り、またふり返り、裸足を引きずりながら
連れていかれたこの峠よ、恨み多き弥阿里峠
韓国戦争休戦後の1956年に発表された曲。弥阿里峠は韓国戦争当時、ソウル北方の唯一の外郭道路であったため、朝鮮人民軍と大韓民国国軍の間で交戦が起きた場所だった。
人民軍が後退した時、拉致された人々も家族はここで最後に見送るしかなかった。この歌は、その一場面である。
ソウルの「弥阿里芸術劇場」に歌碑が建てられている。
<번지 없는 주막>番地のない酒場
1940年
歌:白年雪
作詞:處女林
作曲:李在鎬
문패도 번지수도 없는 주막에
궂은비 내리는 이 밤이 애절쿠려
능수버들 태질하는 창살에 기대어
어느 날짜 오시겠소 울던 사람아
表札も番地もない酒場に
しとしと雨降る夜が切ないね
しだれ柳が鞭を打つ窓の格子に寄りかかり、
いつの日また来るかと泣いた人よ
白年雪と李在鎬のコンビによる「旅人の悲しみ」に続くヒット曲。人々はこの酒場の恋歌を自身の運命に読み替えて愛唱した。
後に羅勲児や周炫美らがカバーしている。日帝植民統治中、疲弊した国民たちに民族的底力を昇華させた曲でもある。處女林が作詞、李在浩が日本の事前検閲制度の枠組みの中でメロディーを作り、20代だった青年歌手、白年雪が歌った。
<대전 블루스>大田ブルース
1959年
歌:安貞愛
作詞:崔致守
作曲:金富海
잘 있거라 나는 간다 이별의 말도 없이
떠나가는 새벽 열차 대전발 영시 오십분
세상은 잠이 들어 고요한 이 밤
나만이 소리치며 울 줄이야
아~ 붙잡아도 뿌리치는 목포행 완행열차
元気でいろよ、俺は行く。別れの言葉もなく
出て行く夜行列車、大田発0時50分
世間は眠って静かなこの夜
私だけが声を上げて泣くなんて
ああ~、すがっても振り払う木浦行き鈍行列車
発売3日で全国の卸売業者から注文が殺到、新世紀レコードは連日、夜間作業を強行した。同社創立以来、最多販売数を記録し、作詞、作曲家は、歌手に特別ボーナスを支給した。
1963年にはこの歌を主題曲に映画『大田発0時50分』も制作された
=写真。1979年の趙容弼以降、数人がカバーしている。大田駅広場には巨大な石で制作された「大田ブルース」の歌碑が建てられている。
<노오란 샤쓰의 사나이>黄色いシャツの男
1961年
歌:韓明淑
作詞・作曲:孫夕友
※노오란 샤쓰 입은 말없는 그 사람이
※어쩐지 나는 좋아 어쩐지 맘에 들어
미남은 아니지만 씩씩한 생김생김
그이가 나는 좋아 어쩐지 맘이 쏠려
아아 야릇한 마음 처음 느껴 본 심정
아아 그이도 나를 좋아하고 계실까
※黄色いシャツ着た無口なあの人に
※なぜか惹かれる、なぜか好きなの
美男じゃないけど凛々しい顔立ち
彼が私は好き、なぜか惹かれる
ああ、やるせないこの気持ち、初めて感じる胸のうち
ああ、あの人も私を好きだろうか
※繰り返し
「4.19学生革命」「5.16軍事革命」へと激動の時代のヒット曲。後にペティ・キム、キム・ヨンジャらがカバー。セマウル運動など復興を目指す社会的気風から、それまでの渋い演歌風やバラード風から、ポップ調へと分岐していく歌でもある。
<돌아와요 부산항에>釜山港へ帰れ
1970&1976年
歌:趙容弼
作詞・作曲:黄善雨
꽃피는 동백섬에 봄이 왔건만
형제 떠난 부산항에 갈매기만 슬피 우네
오륙도 돌아가는 연락선 마다
목 메어 불러봐도 대답 없는 내 형제여
돌아와요 부산항에 그리운 내 형제여
花咲く冬伯島に春は来たけど
兄弟の離れた釜山港にカモメばかりが悲しく泣く
五六島を廻り行く連絡船ごとに
むせび泣いて呼んでみても
返事のないわが兄弟よ
帰って来いよ、釜山港に、いとしい弟よ
1970年に「忠武港へ帰れ」との曲名で販売。しかし、まったく売れず、1972年に趙容弼に譲り、4年後に歌詞を一部修正しアップテンポにアレンジしたことで大ヒットに繋がった。
この歌で趙容弼がNHK紅白歌合戦に韓国人として初出場。多くの日本人歌手がカバーし、カラオケの定番曲としても愛され続けている。
<서울의 찬가>ソウル讃歌
1969年
歌:ペティ・キム
作詞・作曲:吉屋潤
종이 울리네 꽃이 피네 새들의 노래 웃는 그 얼굴
그리워라 내 사랑아 내 곁을 떠나지 마오
처음 만나서 사랑을 맺은 정다운 거리 마음의 거리
아름다운 서울에서 서울에서 살으렵니다
鐘がなる、花が咲く。鳥たちの歌、笑うその顔
恋しいね、いとしい人よ、私のそばを離れないで
初めて会って愛を結んだ優しい街、心の街
美しいソウルで、ソウルで暮らします
韓国戦争からの復興を目指し、発展途上で日々、その姿を変えていく首都ソウルに、国民の夢と希望を託した歌。1966年、ソウル市長から市のイメージソングとして依頼を受けた在日同胞の音楽家、吉屋潤が作詞・作曲し、3年後に発売した。躍動感あふれるリズムが市民たちに元気を与えた。
現在もプロサッカーチームの「FCソウル」が歌詞を変えてチーム応援歌としており、1960年代に出た歌にしては世代を超えて認知度が高い。ソウル市に韓国初の「歌碑」が建立された。
<머나먼 고향>遥かなる故郷
1971年
歌:羅勲児
作詞・作曲:朴政雄
머나먼 남쪽 하늘아래 그리운 고향
사랑하는 부모형제 이몸을 기다려
천리타향 낯선거리 헤매는 발길
한잔 술에 설움을 타서 마셔도
마음은 고향 하늘을 달려 갑니다
空の下、恋しい故郷
愛する父母兄弟がこの身を待つ
千里の他郷、見慣れぬ街をさまよう歩み
一杯の酒に悲しみを乗せて飲めど飲めど
心は故郷の空を駆けて行きます
趙容弼への「歌王」の称号に対し、「トロットの帝王」と呼ばれる羅勲児の最初のヒット曲。この頃、「故郷物」が流行したが、羅勲児独特のコブシ回しでサビの効いた歌に仕上げた。
経済発展の過程でソウルへの集中現象を反映している。望郷の歌は、ソウルへの憧れと並行的に、故郷への人々の思いをかき立てた。
<가슴 아프게>カスマプゲ
1967年
歌:南珍
作詞:鄭斗守
作曲:朴椿石
당산과 나 사이에 저 바다가 없었다면
쓰라린 이별만은 없었을 것을
해 저문 부두에서 떠나가는 연락선을
가슴 아프게 가슴 아프게 바라보지 않았으리
갈매기도 내 마음같이 목메어 운다
貴方と私の間にあの海がなかったら
辛い別れはなかったものを
夕暮れの埠頭から出て行く連絡船を
胸痛く、胸痛く、眺めなかっただろう
カモメも私の心のように喉つまらせて鳴く
作曲家、朴椿石の999番目の作品だ。南珍によるヒットのあと、1977年に日本に進出した李成愛が日本語バージョンで大ヒットを記録した。
以降、韓国歌謡が日本に紹介されるきっかけとなった。仁川港埠頭から西海の離島に向かう連絡船の情緒を連想しながら鄭斗守が作詞。原題は『離島へ行く連絡船』だった。1967年に同名の映画も制作された。