【大阪】「在日韓国奨学会(略称・韓奨)」創立メンバーの一人であり、外国籍教員の国公立大学教授任用への道を切り開いた徐龍達さん(89、奈良市)が1月15日、大阪韓国人会館での同奨学会主催の公開講演会に登場し、自らの生い立ちを振り返りながら「アジア市民社会」への展望などについて語った。同奨学会は昨年8月に65周年を迎えた。徐さんは現在、同奨学会名誉会長。「国際的に開かれた社会を築く大切さを、遺言のつもりで語り残したい」と臨んだ。
◆奨学金支給拒否、自ら制度を創立
韓奨は韓国戦争休戦後の1953年、在日韓国学生同盟関西本部が掲げた事業方針の一つ「貧困学生への奨学金支給など」を受け継いでいる。当時は日本育英会などの奨学金制度に国籍差別があって、外国籍者は受給の道を閉ざされていた。徐さんもその一人だった。
韓奨の創立は1956年8月25日だった。韓学同関西本部での合意により、徐さんは浪速短大助教授だった宋甲憲さんの後を継ぎ、第2代理事長に就いた。まだ、神戸大大学院博士課程にあったとき。支給は月額3000円で、返済義務はなし。当時、国公立大学授業料が年6000円の時代とあって「本代もなく赤貧を洗うようななか、大助かりであった」と当時の奨学生は振り返った。
韓奨を発足させるにあたって特別な基金があったわけではない。一般からの浄財とカンパを頼りとする「きわどい運営」が続いてきた。幸いにも民団大阪本部管内の各支部や商工会会員、韓国大阪青年会議所のメンバーたちが育英事業の継続に一役買った。いまは法人や個人の冠名奨学金制度が韓奨の維持・発展を実質的に支えている。
神戸大大学院を修了した徐さんは、恩師の奔走もあって62年秋、桃山学院大学の専任講師に内定した。実は桃山に内定する前、公募中の京都大学に就職申請するも、日本国籍の取得を求められ、自ら辞退していた。当時、外国籍者で4年制大学の専任教員になったという前例はなく、徐さんが初めての事例だった。
◆定住外国人任用、国公立大学でも
日本育英会から奨学金受給を断られた苦い経験が韓奨設立の契機となったように、徐さんは国公立大学で外国人教員任用運動を展開。75年10月、「在日韓国・朝鮮人大学教員懇談会」として当時の永井道雄文相と会見し、「国公立大学へのアジア人専任教員採用等に関する要請書」を提出した。
当時の国公立大学では教授会構成メンバーとしての外国籍専任教員が一人もいなかったとされる。せいぜいが身分の不安定な「万年助手」(徐さん)、ないしは非常勤講師どまりであった。徐さんも桃山で専任講師として内定される時、最終選考にあたった当時の学長から「君、非常勤講師ではどうか」と打診され、その場では「失礼な」と席を立ったものの、神戸大恩師の要望で桃大に赴任した。
対文部省交渉では10年1日の闘争を経て82年8月20日、「国公立大学外国人教員任用法」を獲得した。徐さんは日高六郎・飯沼次郎の両氏を代表とする「定住外国人の大学教員任用を促進する会」の発足が大きな力となったと話している。
文部科学省の2020年12月現在の統計によれば、80年代始めにはわずか1桁だった国公立大の外国人教員数は3800人を超える。私立大学と合わせると9187人が採用されている。
◆「定住外国人を国の構成員に」
徐さんは33年、日本の統治下だった釜山生まれ。9歳(小学校4年)のとき大阪へ。57年、大阪市立大学を卒業するも就職差別を受ける。受験申請した伊藤忠商事、三和銀行、八幡製鉄の3社から書類の返却があった。やむなく翌年、神戸大学大学院で経営学を学びなおした。
講演の最後に「アジア市民社会」の実現を提唱。「国籍を持つ国民」という「国民主権」の狭い発想から脱皮し、定住外国人も「国を構成する住民」として迎え入れるよう呼びかけた。
徐さんは02年5月10日には外国人として初めて招かれた憲法調査会の口述で「新時代の『日本国民』は『日本人+定住外国人』である」と力説している。
徐さんはこうすることで「日本人の国際性は高まり『アジア市民社会』への道が開拓されよう」と強調した。
(2022.03.02 民団新聞)