黎明商事代表の崔明淑さん

1998年から東京の京王百貨店新宿店で、韓国の伝統工芸品をはじめ、多彩な催事を取り扱ってきた黎明商事代表の崔明淑さん。サッカーのFIFAワールドカップ韓日大会が開催された2002年には大韓民国展を企画し、開催。国旗と公式エンブレムを掲げた唯一の百貨店として話題になった。「韓国という軸を持って輪を広げる」ことを心がけてきた。
相互理解を願い
陶芸、工芸、家具、ツアーも
大韓民国展では、複数の企業から協賛、後援があった。特に大韓航空からは、ファーストクラスの食器10セットの提供を受け、来場者に抽選でプレゼントした。
「やる以上は徹底的にやるという思いだった」
その後、同百貨店と各種イベントの企画社として取引を始めた。百貨店は多様な商品を売る小売専門店だ。売上げが伸びなければ売場維持が困難となる。崔さんは、同百貨店から提示された「売上げが望ましくなくても撤退のことを言わない」という約束で、2000年5月に家具売場内で韓国家具と陶磁器を扱う「黎明工房」売場を設けた。
当初、3年くらい投資をすれば仕事は回ると思い、売り上げにつなげるいろいろな仕掛けを考え、行動した。一つは、海外製品の催事を企画したことだ。売り上げは徐々に伸び、開店1年で運営が出来るようになった。
また、京王ギャラリーでは現地から陶芸作家を招く作家展以外に、毎年1回、11年にわたり一作家の茶陶展も開いた。この他にもボジャギ作家の展覧会や韓国窯元見学ツアー、韓国伝統工芸展などを企画した。
大邱出身。高校卒業後、就職のためソウルに移り住む。ホテルのショッピングアーケードで働いていた30歳の時、ロッテホテルロビー売店のチーフとして中途採用された。以降、職場を変えるタイミングで、働きぶりが評価され、次の仕事につながる誘いを受けてきた。
1986年から94年まで勤めた貿易会社は、韓国の中堅陶芸作家の作品を日本の大手百貨店で紹介する展覧会をしていた。その展覧会を企画し運営する責任者で、当時の肩書は次長。男性部下のやっかみもあった。部下には「悔しかったら私をこえなさい。陰で悪口を言うのは、自分が弱いということに気づいて」と話してきた。
その頃、実績を評価され社長から「近々昇進する」と告げられた。だが何年たっても動きはなく、会社に不信感も生まれた。これまで突っ走ってきた崔さんの体は悲鳴を上げていた。医師の診断書と辞表を会社に提出し、故郷の大邱に戻った。「毎日が戦いだった。誰にも弱いところを見せたくなかった」と話す。
崔さんが全力で仕事に打ち込んできた理由の一つは、米ルイジアナ州、ニューオリンズ国際河川博覧会(1985年5月12日~11月11日)の臨時職員として派遣される時に言われた「お前はKOREAと崔を背負っている。国に恥をかかせず、家門を傷つけることはするな」という父親の言葉。ずっと頭にあったという。
仕事に復帰したのは、日本で世話になった人たちの後押しがあったからだ。1994年4月韓国で事業登録をし、日本で黎明商事を設立。昔の取引先から声がかかった。
長引くコロナの影響で、10年以上続けた窯元見学ツアーや作家展、企画していた安東ツアーも中断している。
最も後悔しているのは、慶尚北道聞慶市で高麗茶碗の再現に尽力してきた人間文化財の陶芸家、千漢鳳さんが昨年10月、持病で亡くなったことだ。千さんは、ぺ・ヨンジュンさんの本『韓国の美をたどる旅』で、著者に陶芸を指導した人物として知られる。
これまで千さんの跡継ぎである愛娘と親子展を2回開催した。生前、日本で「さよなら展」を開こうと話していた。「もう少し、早くやれば良かったと悔しい思いです。時期は未定ですが、いつか回顧展をしたい」
コロナが落ち着いたらツアーも再開する。9月と11月には、京王ギャラリーと茶室での催しも開催する予定だ。
これまでの道のりについて、「後悔はない。情熱は注いだ」と話す。「良い人たちに囲まれてわがままに好きな仕事が出来たことに感謝の心を忘れず、今後はこの環境を生かして、後継者を育てたい」と将来を見据える。
京王百貨店での催し
「韓国茶陶と漆絵展」9月1日~7日。京王ギャラリー。「ヌビる展」11月3日~9日。同ギャラリー。「ヌビのモダニズム展」9月1日~6日。京王茶室京翔。
(2022.07.06 民団新聞)