朴槿恵第18代大統領は、韓国初の女性大統領であり、韓国初の父子2代の大統領だ。朴正熙元大統領の娘が大統領になるまで、歩んできた人生は波瀾万丈だ。両親を凶弾で亡くし、自身も地方選挙支援遊説中にテロにあい、顔に深い傷を負った。前回2007年の大統領選挙では党内選挙で敗れ、非主流も経験した。
国の危機 座視せず出馬
朴新大統領は1952年2月、陸軍大佐の父・朴正熙氏と小学校教師だった母・陸英修氏の長女として、慶尚北道大邱市に生まれた。妹と弟がそれぞれ1人。
61年、少将だった父が5・16軍事クーデターを起こし政権を掌握し、63年に第5代大統領に就任した。中学校に入学した64年に青瓦台に移り住んだ。
「輸出を増やすには電子産業を集中的に育成すべき」という父の言葉もあり、70年に「産業の働き手となり国に寄与したい」と西江大学電子工学科に進学。理工系首席で卒業した。
22歳で〞国母〟に
74年初め、フランスに留学しグルノーブル大学の語学課程に入った。しかし同年8月15日、母が光復節の祝賀行事の席上で殺害され(朴大統領暗殺未遂事件=「文世光事件」)、急きょ帰国。22歳でファーストレディー(大統領夫人)の務めを果たすことになった。各種行事を主管し、国政に関する識見を高めた。世界各国の首脳と指導者にも会った。
社会的な活動にも積極的に取り組み、セマウル(新しい村)運動を具体化したセマウム(新しい心)運動も主導した。朴大統領との朝食は、朝刊の新聞を置いて時事討論を繰り広げた。国内政治に関してもしばしば話を交わした。
79年10月26日、今度は父の暗殺という悲劇に襲われた。翌日午前1時30分ごろ、突然の電話で起こされ、知らせを聞いた。その時の第一声は「前線には異常はありませんか」だった。
同年11月、9日葬の後に青瓦台を離れ、親が住んでいたソウル新堂洞の私邸に戻った。満27歳だった。それから政界入りするまでの18年間、政界とは直接かかわりを持たなかった。陸英修女史記念事業会理事長、嶺南大学理事長、韓国文化財団理事長などを務めながら、亡き父の歴史的な正当性を主張し続け名誉回復に努めた。
対話重ねて初当選
IMF経済危機の中で迎えた第15代大統領選挙直前の97年11月、李会昌ハンナラ党候補の支援要請に応じて父の故郷である慶北亀尾地区党に入党願書を提出した。「通貨危機後の一連の事態を見ながら、『国が大変な時に自分だけ気楽に生きれば、死後に堂々と両親に会えるだろうか』という問いがずっと頭の中から離れなかった」という。
翌98年4月の国会議員再・補欠選挙で大邱達城区からハンナラ党公認候補として出馬。一日に10万歩以上も歩き、有権者との対面接触に全力投球し、初当選を果たす。2000年には党総裁選に名乗りを上げ、副総裁に選ばれた。02年2月、李会昌総裁の1人体制を批判し、党の7大改革案を掲げるも受け入れられず、離党して韓国未来連合を旗揚げした。
02年5月には欧州コリア財団理事の資格で北韓の民族和解協議会の招請を受け平壌を訪問した。この時、金正日総書記とも会談した。金総書記は、速記士1人だけを同席させたこの会談で「文世光事件」について北韓の関与を認めた上で謝罪したと伝えられている。
テロにもめげずに
02年11月、党改革案の多くが受け入れられたことを機に、ハンナラ党に戻った。大統領選挙の違法資金問題と盧武鉉大統領弾劾の逆風で党が沈没直前の危機に追い込まれていた04年3月、党代表に選出された。
その直後(4月)の国会議員総選挙では、「腐敗・既得権政党から脱する。最後にもう一度機会を与えてほしい」と訴え全国を回った。あまりにも多くの握手をしたために手が腫れ、選挙日の5日前からは右手に包帯を巻いていた。与党だった「開かれたウリ党」圧勝の予想に反しハンナラ党は121議席を獲得、起死回生した。
06年6月に代表を退く時までの2年3カ月の間、国会議員の再・補欠選挙と地方選挙の計5回で与党に完勝した。06年5月の地方選挙の遊説時には暴漢にカッターナイフで顔を切り付けられる事件もあった。右頬の傷口は10㌢以上もあり、約2時間の手術で60針を縫った。「あと5㍉でも深ければ命が危険だった」と担当医師は説明した。
イメージ見事回復
07年、初めて大統領選挙出馬の意向を表明したが、党内選挙で李明博・前ソウル市長に敗北した。しかし、その後も高い支持率を集めた。09〜10年には新行政都市・世宗特別自治市の構想修正をめぐり党内で大論争を繰り広げた。「約束は守るべきだ」と国会で修正案反対演説を行った。
ハンナラ党は11年8月のソウル市無償給食投票の失敗、10月のソウル市長補欠選挙の敗北で、深刻な危機局面を迎えた。同年12月には党非常対策委員長に就任。
12年1月に金封筒事件までが浮上し、ハンナラ党のイメージが回復不能状態になると、党名をセヌリ党に改め、さらに党の政綱・政策にも経済民主化の概念を大幅に反映させた。
政権審判世論が激しかったが、4月の総選挙では、過半数を上回る152席という予想外の大勝を収めた。有力大統領候補としての足場を固め、8月の党大会で大統領候補に選出された。
12月19日の大統領選挙では、民主統合党の文在寅候補との大接戦を制し勝利した。当選確定後の国民に対する第一声で、「『民生大統領』『約束大統領』『大統合大統領』になるという国民に対する約束は必ず実践し、『国民幸福時代』を開きたい」と決意を表明した。
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歩み
1952年2月 大邱市三徳洞 出生
64年2月 ソウル奨忠初等学校卒業
67年2月 誠心女子中学卒業
70年2月 誠心女子高校卒業
74年2月 西江大電子工学科卒業
74年8月〜79年10月
ファーストレディー代行
74年〜 陸英修女史記念事業会理事長
80年〜88年 嶺南大財団理事
94年〜05年 正修奨学会理事長
94年〜 韓国文人協会会員
97年11月 ハンナラ党入党
98年4月 大邱達城区国会議員補欠選挙当選
98年11月〜02年2月 ハンナラ党副総裁
2000年4月 第16代総選挙当選
02年2月〜11月 脱党後「韓国未来連合」創党したが復党
04年3月〜06年6月 ハンナラ党代表
04年4月 第17代総選挙当選
07年8月 党大統領候補選挙敗北後承服宣言
08年4月 第18代総選挙当選
11年12月 ハンナラ党非常対策委員長
12年4月 第19代総選挙当選(比例代表)
12年8月 セヌリ党大統領候補に選出
12年12月 第18代大統領に選出
(2013.2.27 民団新聞)