「大韓民国発展のため自分のすべてを捧げる」
「超えるべき山がいかに険しくともひるまず」
■□ 凶弾に倒れた父・朴正熙大統領の霊前に献花・焼香する朴槿恵氏=1979年
支持率は低くとも
経済再生を最優先…「父の偉業」完成を視野に
朴槿恵大統領の前途は多難と言うべきだろう。直近の世論調査で、経済状況が悪いとの回答は83%にのぼった。昨年同時期の78%より増えている。
新政府の最優先課題について、国民の50%が「民生経済の活性化」を挙げた。景気回復への願いが「国民大統合」(10%)、「福祉政策の拡大」(9%)、「経済民主化」(8%)などを圧倒している。飢餓線上であえぐ絶対貧困層は少数でも、生活苦を訴える非正規職勤労者が800万人を超える実態は重い。
李明博前大統領の就任直後の支持率は52%だった。退任時のそれは24%である。これでも、直選制を採った民主化以降の歴代大統領に比べて決して低いわけではない。盧泰愚氏は57↓12%、金泳三氏にいたっては86%から6%に大きな落差を見せた。金大中氏は71↓24%、盧武鉉氏は60↓21%だった。李明博氏を含む大統領5氏の平均支持率は就任時65%、退任時17%だ。
米国の過去11人の大統領の場合、就任直後の平均支持率は65%で退任時でも48%を維持している。韓国と米国で、就任時は同率でも去るときの支持率に極端な開きがあるのは、韓国の場合、失政を挙げつらう傾向が強いからだ。政治力・経済力・市民力などを含む総合国力の規模が反映されているのかも知れない。
韓国でも大統領在任中の支持率を左右するのは、国の経済状況に対する国民の評価だ。経済大統領とも言われた李明博氏の支持率曲線は、韓国銀行が毎月発表する消費者心理指数の推移と似ていた。景況感と大統領支持率の相関関係は密接なのである。
4代も続いた成長率の低下
朴槿恵大統領は就任演説で、国民皆が幸福な希望の新時代、「第2の漢江の奇跡」を生み出す決意を語った。しかし、歴代政府の経済成長率は、盧泰愚時代が8・3%、金泳三時代が7・1%、金大中時代4・8%、盧武鉉時代4・3%、そして李明博時代は2・9%だった。低下が続いている。
経済活力の再生や福祉充実など、新政府が掲げる公約を実現する財源を確保するには、実質成長率を少なくとも3〜4%に引き上げねばならない。しかも、任期中の16年を頂点に15歳から64歳までの生産年齢人口が減少に転じる。少子高齢化がこのまま進めば、7年後の2020年には潜在成長率が2・2%にまで下がる見通しが強まっていることも念頭におく必要がある。
朴槿恵大統領の理念・政策は、父・朴正熙元大統領と関連づけて語られることが多い。本人もそれを強く意識している。新大統領の掲げる「国民幸福時代」は、朴元大統領が牽引した「祖国近代化」の延長線上にあり、それを完成するものでなければならない、父を超える娘にならねばならない、といった具合である。
朴大統領のスタート直前の支持率は44%と低調だ。民主化以降で初めて50%を下回った。しかし、これで弱気になる朴新大統領ではないだろう。大統領選挙時の底堅い支持率は40%台中盤で推移していた。だが、安定した強いリーダーシップへの期待は大きく、信頼度は70%台で一貫した。
たぐいまれな政治的な経験
出帆時の支持率は大統領選挙の得票率51・6%にも満たない。ところが相変わらず、「今後5年間、職務遂行をよくやるだろう」との期待値は70%を超えている。それだけの底力があると国民が見ている証だ。
歴代大統領の退任時の支持率が就任時より大幅に落ちるのが通例とはいえ、支持率が尻上がりになる大統領がそろそろ現れてもいい。その最初の大統領が朴槿恵氏になる可能性は高い。現在の政治家で朴槿恵大統領ほど、権力の大切さ、脆さ、恐ろしさ、信念を持って政治をすることの厳しさを、身をもって知る人物はいないだろう。しかも、女性に立ちはだかる壁をも突き破ってきたのだ。
権力中枢の表も裏も知り尽くした豊かな政治的経験、いくつもの修羅場を突破してきた胆力、人間・朴槿恵には歴代大統領以上の強靱さが備わっている。
■□
悲境と怒りバネに
最愛の父母失い…心ない誹謗、背信にも耐え
朴槿恵氏が政治家として有力になるにつれ、「維新独裁の公主(王女)」、「苦労知らずの公主」、あるいは「気位が高く、独善的で貴族的だ」とかの口撃がついて回った。それどころか、一女性としての人格さえたびたび否定されてもいる。
「子どもを産んだことがない。ひと晩中、わが子を背負ってあっちの病院、こっちの病院と救急医療の門を叩き、泣き叫んだことがない。生活苦のために夜通し夫婦喧嘩をし、家庭生活を心配したこともない」
特権の味だけを知り、特権層に奉仕するだけの反民衆的、反庶民的な政治家とのイメージを植え付けようとする狙いは明らかだ。この種の聞くに耐えない悪罵が第18代大統領選挙に際しても飛び交ったのは言うまでもない。
韓国は建国以来、親日・親米の反民族・反民主的な特権勢力が実権を握ってきた−−80年代中盤からはびこったこうした歪んだ歴史観、それと昨今の貧富格差の拡大があいまって、「公主」口撃は一定の影響を見せたと言われる。
しかし、彼女が並の苦労人ではないことを年配者なら誰でも知っている。確かに、3度の食事に事欠くことはなかっただろう。ただ、その3度の食事もまともに喉を通らず、身体・精神に異常をきたす不幸がたびたび襲った。その反動から政治を敬遠し、平凡な生活を渇望して当然と思えるほどの過酷な半生だったのだ。
教壇に立つ夢22歳で封印し
槿恵氏がフランス留学中の74年8月、光復節式典の会場で、北韓‐朝総連の指令を受けた在日同胞2世の文世光が演説中の朴正熙大統領を狙って拳銃を発射、その流れ弾がオモニ陸英修女史の命を奪った。いわゆる「文世光狙撃事件」である。
この一報に、各地民団が主催した光復節式典は騒然となり、テレビに釘付けとなった団員たちは悲痛と怒りで震えた。槿恵氏の悲憤はいかばかりだったか。自叙伝『絶望は私を鍛え、希望は私を動かす』にはこう書かれている。
「母の遺品を整理していると、心臓が切られたかのように痛んだ。しばらくは生ける屍のように過ごした。心理的なストレスなのか、生理が止まり身体のあちこちが痛んだ。免疫力が落ちたのか、以前はなかったアレルギーが出て、毎日くしゃみが止まらなかった。しかし、落ち込んではいられなかった。父の苦痛は、私たちより数十倍大きいものだった。生きている人は生きていかねばならない、と私は自分を奮い立たせた」
ファーストレディーとしての活動を始めたのは葬儀を済ませた6日後だった。胸に喪章をつけていた。フランス留学後、大学の教壇に立つとの夢を封印した22歳のときである。
父の死にまず北の侵攻心配
前年の金大中拉致事件によって韓日関係が最悪な状態にあり、日本メディアは反韓のキャンペーンを張っていた。メディアの一部からは事件の自作自演説、つまり朴大統領が陸女史を排除するために引き起こしたとのデマが公然と、執拗に流されていた。背後に北韓‐総連による操作があった。
年配の団員のほとんどは、今歯ぎしりしつつ、偏向報道を徹底的に糾弾する一方、ファーストレディーとなった槿恵氏に声援を懸命におくった当時を思い出していよう。
そして79年10月26日。朴正熙大統領が側近と会食中、こともあろうに中央情報部長だった金載圭によって射殺された。その一報を聞いて槿恵氏の口から無意識に、まっ先に出た言葉が「前線に異常はありませんか」だった。朴大統領の死に乗じて北韓が武力侵攻する可能性を排除できなかったからだ。
気丈である。しかし、槿恵氏の全身には棍棒で叩かれたような、むくんだ大きな青あざができていた。精神的な衝撃の大きさを示す鬱血による症状だ。父の血染めの服を洗いながら、母の血のついた韓服を洗った記憶がよみがえり、「人が一生の間に流す涙を流した」と述懐する。
度超えた攻撃悔しく悲しく
朴大統領の国葬をある有力紙は、「一時代を率い、歴史の中へ」と報じた。「漢江の奇跡」を成し遂げ、韓国を最貧国から世界の強国へと押し上げる基盤をつくった朴正熙大統領の時代は、こうして終わった。槿恵氏が家長となった3人の遺族が青瓦台を去ったのは同年11月21日だった。そして試練は続く。
この年の12月12日の新軍部クーデターで権力を掌握した全斗煥政権の内部からも、朴正熙大統領に対する一方的な罵倒は続いた。それよりもつらかったのは、父のもっとも近くにいた人たちさえ冷たく心変わりする姿を見ることだった。
「18年間、一国を率いた大統領である以上、死後に政治的評価を受けるのは当然である。だが、それが新しい権力に取り入ろうとする人々によってウソや推測、非難一色で罵倒され、歪曲されたら、悔しくないはずがない。父がしたことをけなし、無残に名誉を傷つけるだけでは飽きたらず、墓の中にいる父に対する人身攻撃は度を超えていた」(自叙伝から)。
■□ ハンナラ党党首としてソウル市長候補の応援遊説中に暴漢に襲われ、手術を受けた=06年5月20日
再び生まれた日
凶刃被害も天運重なり
事実をねじ曲げていく現実に対し、槿恵氏に何かを語る力は残されていなかった。父母の命日はもちろんいかなる公式行事も考えられない状況が続いた。全斗煥政権は、遺族たちが朴正熙大統領の眠る国立墓地で追悼式を行うことを許さず、槿恵氏が長を務める「セマウム(新しい心)奉仕団」にも圧力をかけ、解散に追い込んだ。
何年もの間、父の追悼式を公に行うことができず、3人だけで家でひっそりと法事を済ませるほかなかった。国立墓地で朴正熙大統領の追悼式が挙行できたのは87年、槿恵氏が政界入りを決意した年のこと。そして、10周忌追悼式には国立墓地に15万の市民が詰めかけた。
大統領の娘として、またファーストレディーとして青瓦台で過ごした18年間。青瓦台を去って政界入りするまでのそれとほぼ同じ年月を人々は「閉門蟄居の状態」と見がちだった。だが、槿恵氏は「その時も私は、大韓民国の空の下で生きてきたし、日々を一生懸命生きていく一人の国民だった」と回想する。
最愛の両親が相次いで非業の死を遂げた悲痛さはいかばかりだったか。それはいずれも、韓国の現代史を揺るがした大事件であった。韓国が建国時から抱えてきた歴史の悲劇を、槿恵氏は家族と国の悲劇の歴史として背負ったのである。それで終わったわけではない。 第4回全国同時地方選挙を10日後に控えた06年5月20日。ハンナラ党(現セヌリ党)の党首となっていた槿恵氏は、ソウル市長候補の応援遊説のさなか暴漢に襲われた。右頬と首の間に鋭い嫌みが走ったものの、手のひらで傷を抑え、「演説は終わらせねば」と壇上に上がった。血はとめどなく流れ落ち、傷口は押さえていた指が入るほど広がっていた。
傷の長さは11㌢、深さは3㌢もあった。ほんの少しずれていれば顔面神経を破壊し、一生口を開けられなくなっていたという。それだけではない。幸いにも傷は頸動脈のすぐ手前で止まっていたが、あと5㍉深ければ3分以内に即死してもおかしくなかったのだ。
事件現場が病院から近かったこと、ちょうど手術室が空いていたこと、この種の手術で国内最高権威の医師が執刀に当たったこと、いくつもの天運が重なった。朴槿恵大統領はこの日を「私がこの世に再び生まれた日」だと胸に刻んでいる。
■□ 政界デビューとなった1998年の国会議員選挙で大邱・達城区で初当選した
初恋相手は趙子龍?
火中の栗あえて拾う…凄まじい圧力に毅然と対処
「槿恵は『三国志』の誰が一番好きか」
「趙子龍です」
男の子勝りの腕白娘らしく、戦争物の歴史小説が好きで『三銃士』などを読みふけっていた小学生時代、読書傾向を見てとったアボジから勧められたのが『三国志』だ。家に帰って早く読みたいと授業中もそわそわ。自分の初恋相手ではないかと思うほど趙子龍に胸をときめかせたという。
子龍は劉備に馳せ参じた武将で、先輩格の関羽、張飛が豪勇を轟かせる一方で傲慢であったのとは違い、理知と謙虚さを合わせ持ちながら、劉備をして「子龍は一身これ胆なり」と称えさせる度胸があった。何より凄いのは、戦で最も困難とされる敗走、撤退時の殿(しんがり)を志願、友軍の危機を救った軍功は数知れない。
子龍は部隊の統率も見事でとにかく危機に強い。槿恵氏が「選挙の女王」との異名をとるほど勝負に強く、自身が属した保守政党の危機を再三救うことになったのも幼い頃から培われた気質によるものか。
敗北が必至の選挙区で圧勝
血と汗で築いた国があっけなく崩壊していくIMF危機(97年末)を座視できず、槿恵氏は政界入りを決意する。98年4月の再・補欠選挙で、有利な条件が整っていた聞慶・醴泉(慶北)から出馬する予定を変更、ハンナラ党の誰が出ても勝てないと言われた大邱・達城で立候補し、資金・スタッフに事欠いたまま圧勝した。
金大中大統領の支持率が絶頂だった頃だ。97年の大統領選挙に負け、伝統的な支持基盤である達城でも議席を失えば、ハンナラ党は本当に崩壊するかも知れないという危機意識があった。彼女は「ハンナラを助けるには、最も厳しい選挙区で最も難しい相手に勝つのが一番」と腹を括って臨んだのだ。
盧武鉉大統領時代の04年4月の国会議員選挙を前に、現有137議席で第一党だったハンナラ党は腐敗党のレッテルを貼られて強い逆風を受け、よくて50議席獲得がやっと、場合によっては壊滅的な打撃をこうむるとの予想が支配的だった。だが、選挙の3週間前に就任したばかりの朴槿恵代表率いるハンナラ党は、121議席を得て強力野党の地位に踏みとどまった。
立ち向かって決して逃げず
在外国民が初めて投票に参加した昨年4月の第19代国会議員選挙。野党が全国的な選挙連合を組み、李明博政府の不人気に乗じて「政権審判論」を打ち出すなか、与党ハンナラは100議席割れの大敗が必至とされた。この時も選挙4カ月前に事実上の党代表である非常対策委員長に就任、党名をセヌリに変えて全面的な出直しを図り、単独過半数の152議席を得て勝利した。
そして、自身の真価を問う第18代大統領選挙である。40%台中盤の支持率で常にトップを走りながらも、野党圏の2有力候補が単一化すれば逆転は不可避とされるなか、事実上の単一化による逆転攻勢にも動じず勝利をつかんだ。凄まじいプレッシャーに毅然と対処する姿に、国民は槿恵氏特有の安定した強力なリーダーシップを見たに違いない。
危機から逃げない。背を向けない。回避不能な危機に処してはむしろ、正面突破を辞さない心性を持っている。職責の重さをよく知る大統領として、内憂外患を必ずや打破するだろうとの期待が大きいのも当然と言うべきか。
■□ 大統領の娘として青瓦台に住んでいた時代、朴正熙大統領と陸英修女史、弟の志晩、妹の槿玲さんと家族団らんのひと時を過ごす朴槿恵氏(右から2人目)
「政治10段」の指導力
「自身との闘い」信条に…発言は深い思慮が裏打ち
「人生とはつまるところ、一つの闘いだ。他人との闘いのようでありながら、根本的には自分自身との闘いである。人生の勝利とは、自分自身に勝つこと、それ以上でもそれ以下でもない」(95年。朴槿恵の心境告白エッセイ『私の心の旅程』から)。
弥勒菩薩にも似た柔和な面差しからは想像もできない強靱さをうかがわせる。歴史的に見ても、自分自身に勝つ指導者はそう多くない。自分を知ることはそれだけ難しいのだ。自叙伝から、この事実を紹介しておくべきだろう。
盧武鉉大統領は一時期、国政運営の厳しさから野党ハンナラ党との大連立を考えたことがある。05年9月、盧大統領はハンナラ党の朴槿恵代表と会談した。朴代表が大連立はあり得ない旨説明すると盧大統領は「盧武鉉時代を早く終わらせるのはどうかとも考えた」と、任期中断をにおわす発言をした。
朴代表は「辞めるなどとどうぞおっしゃらないで下さい。国民が不安になります」と述べ、最後に、大統領という地位はどういうものかを真心を込めてこう語った。
「私は大統領がどんな地位か、近くで長い間見てきたのでよく理解しています。誤解は受けますし、国民の心配がそのまま大統領の心配になり、24時間気が休まることがありません。無限の責任を負う位置です。他人は権力者だと言いますが、実際はとても孤独な立場です。しかし、大統領はその時代ごとに負うべき責務があるのですから、盧武鉉大統領は盧武鉉大統領時代の使命をよくお考えになり、締めくくるべきです」
権力の本質を身をもって知る
朴槿恵氏の大統領としての特性は「孤独のリーダーシップ」にあるとされる。ただそれは、寂しく孤立しているということではない。朴大統領は歴代のどの大統領にも劣らず、周囲の意見に耳を傾け、受け入れる政治家だ。「孤独のリーダーシップ」とは、判断し、結論を下すときは一人という意味にほかならない。
一方で常々、「権力が大切なのは国民のために多くの仕事をするためだ。国民のために使われず、個人の利益のために濫用されたとき、権力は醜悪になる」と語ってきた。独善に陥りやすいことも熟知し、戒めることを忘れていない。
朴槿恵大統領は冗長を嫌い、簡単明瞭で正確な話法を好む。上申は「起承転結」よりまず結論が求められる。これを側近たちは「短文のリーダーシップ」と呼ぶ。包装より中身を、誇張でなくありのままを、名称一つもそれが何を意味するのかすぐに分かるものを−−これが何よりも効率性を重視する朴大統領のスタイルだ。
セヌリ党の大統領候補競選過程で行われたテレビ討論で、「女性が国軍の統帥権者に適任なわけがない」と攻撃されたことがある。後日の食事会でそれが話題になり、討論に参加した朴候補の参謀は、「やや長かったもののうまく説明した」と評価された。
これを黙って聞いていた朴候補は、微笑を浮かべながらこう言った。「私ならば、そのように複雑な話はしないでしょう。『戦争は筋肉でするのですか?』。この一言で済ませるでしょうね」。参席者は爆笑しつつ大いに頷いたという。
政界入り15年準備は充分に ハンナラ党代表だった2006年9月、盧武鉉大統領と会談
朴新大統領をたびたびインタビューしてきたある元老記者は、「あの方は考えを深くする人だ。明け方まで考え込むことが多いと思う。彼女は普通の政治人ではない。政治10段と言えるのではないか。」と述べた(『月刊朝鮮』3月号)。朴大統領の簡潔な言葉は、深い思考に裏打ちされている。
朴槿恵大統領が政治の道を行くと決めたとき、大韓民国発展のため、自分の生活をすべて捧げる覚悟を固めた。超えねばならない山がどんなに危険で険しくとも、ひるむことがあってはならないと心に誓っている。それから15年。「準備された女性大統領」とのフレーズは、決して誇張されたものではない。
(2013.2.27 民団新聞)