植民地統治下の韓半島で植林事業を行う傍ら朝鮮王朝時代の陶磁器と木工を研究し、韓日両国の懸け橋となった浅川巧の生誕から今年1月15日が130年、4月2日は没後90年忌。節目の年を迎えて巧の生まれ育った山梨県北杜市では浅川伯教・巧兄弟を青少年に紹介する漫画本を制作中。在日同胞有志は巧を顕彰するレリーフを準備中だ。駐日韓国文化院は「浅川伯教・巧兄弟資料館」を訪ねるフィールドワークを計画している。巧を慕う韓国と日本、「在日」の心が一つになって響き合う。
『浅川兄弟漫画』発刊へ…偲ぶ会企画 北杜市教委が制作
記念事業として北杜市(渡辺英子市長)は『浅川兄弟漫画』を11月に完成させる予定だ。今年で設立から25周年を迎える「浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会」(千野恒朗会長)が企画した。
漫画は約200㌻。偲ぶ会の比奈田善彦事務局長によれば「兄弟はなぜ、朝鮮へ行ったのか。どういう出会いがあって、なにを考えたのか。そこでの仕事など、原作は残された巧直筆の日記14冊と手紙から組み立てた」。「すべてが本当のこと」というからには「評伝に近い」といえそうだ。
「巧日記」はデスマスクとともに韓国在住の金成鎮さんが兄・伯教から託され、1950年の韓国戦争時には家財道具は捨ててでも「巧先生の慰霊」と思って肌身離さず守り抜いてきたもの。浅川巧の研究に打ち込んでいた高崎宗司津田塾大学教授(当時)を通して北杜市に寄贈された。北杜市は有形文化財に指定した。
制作委員会は北杜市教育委員会が主体となり、委員には学校の先生を加える予定。「漫画」が完成したら、先生から子どもたちに兄弟の博愛の精神を語り継いでいってくれるのではと期待されている。
在日同胞2世の河正雄さん(81、私塾「清里銀河塾」塾長)は6月の「偲ぶ会」25周年総会に合わせ浅川巧のレリーフを寄贈する計画だ。寄贈が実現すれば「浅川伯教・巧兄弟資料館」(北杜市高根町)の館外に設置することにしている。
一方、ソウル市内の巧墓地には4月2日の命日に合わせ「韓国を輝かせた(ミラクル・コリア)世界の70人」記念碑を建立する計画。北杜市から支援を受け、偲ぶ会が「韓国浅川巧顕彰会」との共同の取り組みとして進めている。
比奈田事務局長は「日本の戦後70年にあたる15年、朝鮮日報などからミラクル・コリア世界の70人に選ばれた事実をお墓に残すのが先決」と話す。これに対して韓国側は「東屋」を建てることを提案しているという。
「偲ぶ会」創設は82年に高崎宗司さんが出版した『朝鮮の土となった日本人‐浅川巧の生涯』がきっかけ。この本を読んで感動したのが当時の高根町長、大柴恒雄氏だった。大柴町長は浅川兄弟が同じ高根町五町田(現在の北杜市)に生まれ育ったとは知らなかったという。
大柴町長は91年、五町田地域のほぼ中央にあたる農村公園に「浅川伯教・巧兄弟生誕の地記念碑」を建立。95年には五町田地区住民27人が韓国に眠る浅川巧の墓参りに出かけた。
その際、大柴町長はかつて浅川巧が勤務していた林業試験場、現在の韓国林業研究院の趙在明院長に宛てた親書を託した。趙院長は浅川巧の業績を知る数少ない韓国人の一人だった。
日韓友好親善はこの時点からスタートしたといえる。96年には「浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会」が創設され、大柴町長が初代会長に就任。97年には「浅川巧先生記念事業会」を創設して幹事長の要職に就いていた趙在明氏の努力を仰いで初の「浅川巧公韓日合同追慕祭」が実現した。
03年には高根町と京畿道抱川郡との姉妹血縁締結調印式が高根町で挙行された。ちなみに抱川郡光陵は当時浅川巧がよく足を運んだ林業試験所の出張所(現中部林業試験場)のあったところだ。一連の流れの中で中学生のホームステイが交互に行われるようになった。
当時の時代と歴史…兄弟を通じて検証 資料館
高根町生涯学習センターには図書館、郷土資料館とともに「浅川伯教・巧兄弟資料館」がある。総事業費6億円。このうち2億円は日本政府が国の木材流通合理化特別対策事業「地域木材施設整備事業」として補助した。林業技手だった浅川巧にちなみ、地元産の木材を使い01年7月にオープンした。
資料館には兄弟のジオラマと年譜、兄弟の残した日記・書籍・絵画・焼き物・朝鮮王朝当時の膳などを展示中。北は北海道から南は九州まで年間4000人が来館している。韓国からも毎年100人ぐらいが訪れるという。
資料館には著名な池順鐸氏と柳海剛氏が制作した時価数千万円とされる陶磁器が展示され、資料館の目玉ともなっている。資料館建設の必要性を説いてきた在日同胞の河正雄さんが寄贈した。
澤谷慈子前館長は「ただ、兄弟をほめたたえるだけの資料館では見る日本人が『ああよかった』と巧を免罪符にしてしまう。それでは日本の帝国主義の植民地政策に加担したことになる。当時の時代と歴史のなか、それでも兄弟がどう生きたのかを厳密に検証する資料館にしたかった。河正雄さんもそれを望んでいたのでは」と語った。学芸員資格を持つ澤谷さんは館長就任と同時に、自らの責任で展示内容を大幅に変更したのだという。
9時30分~17時、月・火曜日休館。JR長坂駅から市営バス15分。問い合わせはTEL0551・42・1447。
国境超えた人間愛を伝承…清里銀河塾、塾生千人送り出す
河正雄さんは浅川伯教・巧兄弟と清里開拓の父と称されるポール・ラッシュ博士の「国境を越えた人間愛」に感銘を受け、その生き方を広めるための私塾「清里銀河塾」を2006年から開催してきた。
この塾は韓・日の次代を担う若者が浅川巧生誕の地で学び、国際人としてどのように歩むのかを問う、次代に伝承する場である。19年までに18回開催。巣立った塾生は1000人を数える。国籍は日本や韓国にとどまらない。中国やベトナム、インドネシアなど多国籍にまたがる。河さんは塾生を通じて世界に思想が広まることを願っているという。
「浅川巧の業績は多くありますが、私にとっての感銘は、その生きる姿、考え方であり、日々の行い、営みであります。浅川巧は韓国の山河や歴史と文化を大きく深いところで見つめていたと思います。国や民族を乗り越えた『共生』を考えていた人でありました」
河さんが浅川巧を知ったのは高校時代。感銘を受けて「韓国と日本という2つの祖国・故郷を愛し、寄与して、共に生きることを誓った」。浅川巧は河さんの人生にも大きな影響を与えたのだ。
20歳で迎えた春、特にあてもなく新宿から中央線に乗り、ロマンチックな駅名に惹かれて高原の駅「清里」に降り立った。ここは山梨県高根村(当時)。周囲を見渡すとなぜか、「浅川」「あさかわ」という看板が目立った。「ここは浅川巧の故郷ではないだろうか。生まれ暮らした家があるかもしれない」。
河さんの胸は高鳴った。こおどりするような気持ちで「浅川巧のことを知りませんか」と、1軒ずつ尋ね歩いた。だが返ってくるのは「さあ、そんな人のことは聞いたこともない」というつれない返事ばかり。
60年前、浅川巧の存在はその業績に比して、生まれ故郷でも意外と知られていなかったことがわかる。河さんは67年と77年、高根町役場を訪ねて町の歴史や町史に浅川巧が記述されていないか調べたことがある。結果、「まったくなかった」。
以来、浅川巧との接点、糸口を見いだせないまま時間が過ぎていった。 96年のこと。河さんは自宅を訪ねてきた友人から「すばらしい本だよ」と浅川巧の生涯を描いた小説『白磁の人』(江宮隆之著、河出書房新社刊)をプレゼントされた。河さんはむさぼるように読み、こみあげてくる熱いものを抑えることができなかった。
「浅川巧との出会いは偶然といおうか必然といおうか。どちらにしても深い縁で結ばれていたのだと、その時しみじみ思った」。
もう一人、河さんが影響を受けたポール・ラッシュ博士は、1923年の関東大震災で破壊されたYMCAを再建するため1925年、米国から来日した。宣教師として農村伝道の傍ら清里で病院、農場、保育園、農業学校、「清泉寮」を建て、現在の清里の発展の基礎を築いた。河さんは「日本の敵国『鬼畜米人』だった人が、戦前・戦後を通して日本の地にとどまって実践している遠大な人類愛のロマン」と敬愛した。
河さんは77年、チャペル風の「清泉寮」を訪ね偶然、ポール・ラッシュ博士に会い、1時間ほど会話を交わしたことがある。
「ここまでくるのに大変なことが多かったでしょう」。河さんの問いかけにポール・ラッシュの顔が瞬間曇った。
「自分の理想とロマンとのギャップで苦しみました。地元の人々から理解が受けられなかったことでいちばん悩みました。今も悩み、実はそのことで一人で考え込んでいたところです」
ポール・ラッシュ博士の言葉は河さんに「共感」として伝わった。「異郷の地で異邦人として奉仕をすることがたやすいとは思わないが、この孤独、このわびしさは一期一会の出会いを糧とする影響を受けた」
河さんは東大阪市生まれの在日2世。秋田県で育ち、小学校時代は豚の餌となる残飯集めや新聞配達をしつつ妹弟の子守をしながら小学校に通学。幼少期から美術に傾倒し県展では高校生として初の受賞。20代の半ばで在日画家を中心に絵画の収集を始め、総数1万2千点余りになった。これを韓日両国の美術館や大学に寄贈してきた。父母の故郷、全羅南道霊岩郡には自身の名を冠した郡立河正雄美術館。そして、光州市には同市立美術館分館河正雄美術館がある。
「道~白磁の人」上映…夏に「道端の人文学」駐日韓国文化院
駐日韓国文化院(黄星雲院長
=写真)は北杜市の「浅川伯教・巧兄弟資料館」で「道端の人文学‐日本の中の韓国を訪ねて」を夏に予定している。
黄院長は「浅川兄弟は植民地である韓国を愛し、韓国と韓国人を理解しようとしていた。日韓交流、韓日友好とはなにかを見せてくれた。お互いの文化を理解しようということは韓国文化院の目指すものとも一致している」と評価している。
昨年2月には映画「道~白磁の人」上映会と同映画日・韓・在日共同制作委員会の小澤龍一事務局長による講演会「日韓に横たわる課題」を「ハンマダンホール」で開催した。これは北杜市・駐日韓国文化院による初めての交流事業。希望者1000人のなかから抽選で250人を招待した。
映画は韓国併合から4年後の1914年、朝鮮総督府の林業試験所に技術者として赴任した浅川巧と同僚のチョンリムとの交流と友情を描く。制作費は約4億円。資金集めのため全国の山梨県人会を回ったという小澤事務局長は「托鉢の毎日でした」と振り返った。
黄院長は「映画を観て、浅川巧先生がチョンリムから韓国語を習い、めきめき上達していく姿に韓国に愛を持っている方だと知った。本来なら私たちこそがやるべきイベントだった」と語った。
【浅川 巧とは】
「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人」と評される。その死に際しては韓国人によって追悼され、顕彰碑まで建てられた例外的な日本人だった。以下は代表的なエピソードだ。
▼日本人が電車の中で、座っている韓国人に対して「ヨボ どけ」といって座席を空けさせたりすることは植民地支配下の韓国で日常茶飯事だった。巧は「ヨボ どけ」といわれても「私は日本人だ」と抗弁しなかった。黙って席を立った。
▼林業試験場の職場以外は何時でもパジ・チョゴリを身に着け、なめらかな韓国語を使ってしばしば韓国人と間違えられた。「日本語のうまい韓国人」とも思われていた。
▼「俺は神様に金は貯めません」と誓ったという。祖父四友の血を受け、清貧の人だった。同僚の職員で貧しい家庭の子女に奨学金を贈っていたと伝えらる。その数は不明だが、かなりの数にのぼったらしい。
▼かつて、青物を女が売りに来たときのこと。「ああ買ってあげよう、いくらだ」「これは一つ二〇銭ですが」。そばで巧の奥さんが「今隣では値切って十五銭で買えましたよ」という。「あそうか、それならわしは二十五銭で買ってやる」。貧しい女をそうやっていたわったという。
1914年、一足早く韓半島に渡っていた兄の伯教を追って朝鮮総督府山林課に勤務。自ら考案した発芽の良くない朝鮮五葉松の「露天埋蔵発芽促進法」は当時の林業界では画期的な発見だった。
(2021.01.01 民団新聞)