掲載日 : [2021-11-08] 照会数 : 6513
長崎原爆同胞慰霊碑が除幕…構想27年民団県本部の努力実る
[ 慰霊碑の全容 ] [ 構想27年にして建立した慰霊碑が序幕 ] [ 慰霊祭で挨拶を述べる建立委員長でもあり、民団長崎本部の姜成春団長 ]
市と粘り強く協議重ねる
長崎への原爆投下で犠牲になった韓国人を追悼する慰霊碑が長崎市の平和公園に建立され、6日に除幕式と慰霊祭が執り行われた。原爆同胞犠牲者を慰霊する碑は1970年に広島には建立されたが、長崎には建てられなかった。長崎にも「慰霊碑」をと1994年に民団長崎本部が建立の動きを見せたが、方式や敷地確保問題が重なり、進展がみられなかったが、2011年に韓国原爆被害者協会と駐福岡韓国総領事館が長崎市に平和公園内の建設場所の提供を要請し、建設事業が本格的に進められた。2013年には民団長崎県本部を中心に建設委員会が構成された。建立へ動き出した94年から、実に27年を経てようやく実現した。
「歴史の記憶へ韓日協力」姜昌一大使
慰霊碑前の現場では姜昌一・駐日韓国大使、李煕燮・駐福岡総領事をはじめ、民団中央の呂健二団長と近隣各地方本部団長、長崎市議や地元の高校生平和大使らが出席して除幕式があった。
式では参加者が碑に献花し、原爆が投下された時刻の午前11時2分に黙祷を捧げた。
この後、向かい側にある原爆資料館ホールで慰霊祭が営まれた。
建立委員会委員長でもあり、民団長崎本部の姜成春団長は「日本人の市民団体が建立した『長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑』はあるが、我々在日韓国人同胞の手で念願だった慰霊碑が建立できたことは韓国政府の支援及び在日同胞並びに関係者の皆様のおかげ。この碑が韓日の真の友好発展と同胞の被爆の歴史を次世代に伝えるきっかけになることを願う」と述べた。
呂健二団長は「慰霊碑建立の実現に向けて、長年にわたり尽力した民団長崎県本部の皆様と駐福岡韓国総領事館の皆様、物心両面で支援をいただいた多くの皆様、あわせて、長崎市をはじめとする日本の皆様に心より感謝申し上げます」としながら、「この慰霊碑を通じて、悲惨な戦争の歴史を後世に伝えていくことが私たちの使命であると思う」と期待を込めた。
姜昌一大使も「犠牲になった方々を考えると、あまりにも遅くなって申し訳ない気持ちでいっぱいだ。しかし、今からでも彼らのための慰霊碑が設けられたことを意味深く思います」とし、「ひとりの歴史家としても、我々が歴史を記憶する理由は、二度と同じ悲劇を繰り返さないためだと信じている。本日の小さな一歩が、韓日の模範的な協力事例として歴史に残り、ひいては世界平和を守るのに寄与する大きな一歩に繋がることを期待しています」と述べた。
この後、李熙燮総領事、向山宗子・長崎市議会公明党代表、平野伸人・平和活動支援センター所長が順に、あいさつを述べた。
向山代表は「日韓のみならず世界中の若者に平和の尊さや戦争の悲惨さの思いが届き、平和な未来へと導いてくれることを切に望む」と寄せた。
建立された慰霊碑前の説明文(別掲)は日本語、韓国語、英語の3カ国語で記述した。
◆建立までの経緯
長崎の韓国人慰霊碑建設は1990年代から進められた。もう一つの原爆投下地域である広島市には、1970年に韓国人原爆犠牲者慰霊碑が建立した。
広島の慰霊碑はその後、民団の強い要望で1990年に現地の平和記念公園に移設された。この時、長崎の慰霊碑建立に向けた議論が始まった。
民団長崎県本部は、1994年5月に被爆50周年を迎えるにあたり、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」建立について、長崎市に敷地提供願いの申請をしたが、当時、平和公園再整備工事の為、敷地提供が空白のままとなった。
その後、民団同本部内で建立構想を重ねたが、諸問題で頓挫していた。
2011年3月に韓国原爆被害者協会が田上長崎市長に建立の陳情をしたことが契機となり、2012年11月、駐福岡韓国総領事館が平和公園に慰霊碑建立の敷地を要請したことで、建立事業が本格的に推進された。
2013年7月に民団長崎本部を中心に、建立委員会が結成され、長崎市と建立委員会が数次にわたり協議を続けた。しかし、慰霊碑の形状、碑文の内容等で文化の違いや見解の相違で当初は、進展を見なかったが、双方が建立に向ける意義は理解していた為、粘り強く長崎市と建立委員会が協議を重ね、今回の建立にこぎつけた。
慰霊碑は、高さ3メートルで面積は6平方メートル。
建立目的は異国の地、長崎で被爆し犠牲となった韓国人同胞の慰霊と再び原爆の惨事を繰り返さないことを願うとともに戦争と被爆の歴史を後世に伝えるためとしている。
◆碑文
有史に比類なき死の宣告がこの地を襲い、我が同胞の命をも無慈悲に奪い去りました。
咲き誇る無窮花に故郷と家族を想い、祖国光復への胎動にどれほど心震わせていたことでしょう。
故国に還ることついにかなわず、標ひとつないまま異境の土となった惨さにおののくばかりです。 この碑は、原爆による受難の歴史を決して忘れることなく、犠牲同胞に哀悼の誠を捧げようとするせめてもの証です。
諸霊よ。心安らかにお眠り下さい。
長崎韓国人原爆犠牲者慰霊碑建立委員会
◆案内文
我が祖国は1945年8月15日までの35年間、日本の統治下にあった。太平洋戦争の末期には労働者、軍人・軍属として本人の意思に反して徴用・動員される事例が増え、それまでの移住者を含め長崎県在住同胞は約7万人(内務省警保局調査からの推計)、うち長崎市とその周辺に約3万5千人(「原爆と朝鮮人」より)を数えた。1945年8月9日、長崎市上空で炸裂した原子爆弾は、約7万4千人の尊い命を奪った。我が同胞は、数千~1万人とも言われる命を奪われ、故郷の父母兄弟と二度と会えないまま、異境に生涯を閉じた同胞の無念はいかばかりか。
犠牲同胞の霊を安らげるべく、在日本大韓民国民団長崎県本部を中心に「長崎韓国人原爆犠牲者慰霊碑建立委員会」を設立し、各地在日同胞と日本人有志が寄せた浄財によって、ここ平和公園の一角に念願の慰霊碑を建立する。
2021年11月6日 長崎韓国人原爆犠牲者慰霊碑建立委員会