掲載日 : [2008-08-27] 照会数 : 4793
統一問題への視点(8) 在日同胞の立場から
[ 呂運亨
] [ 金 九 ]
「わが民族同士」の理念(下)
3・1運動も否定…先烈おとしめ指導者神格化
民族・民主勢力 抹殺の北韓
わが民族の民族主義について本稿は前回(7月30日付)で1890年代からの列強の東アジア侵食と日本による植民地化の過程で形成され、1919年の3・1独立運動によって爆発的に発露されたと指摘した。
朝鮮朝のような封建制度のもとで民衆にあるのは、世襲的な血統支配の権威に対する恐怖と従順であって、自己の日々の生活問題以外に全体の運命について考え、行動する意識は乏しい。秩序の基本が上意下達だけであれば、大多数の民衆にとって国家の観念は存在せず、同族の情も希薄なままである。国家が意識されたのは、その受益者である両班士太夫以上の特権層だけだったと言ってよい。
帝国主義日本はまさに、支配層と民衆が乖離している一方で、民族的あるいは国民的な意識と結束力が育っていない、そのような間隙を突いて植民地化を進めたのだ。韓日併合から9年にして民族的決起が可能になったのは、わが民族の存在をその淵源から意識させ、古代からの民族的基盤に立つ国家の概念を普及させる血みどろの努力によってであった。
3・1運動の示威参加者は200万人を超え、両班・常人といった社会的・経済的な階級・階層を問わず、老若男女の性別・年齢を問わず、韓半島全域を巻き込んだ地域を問わない広範囲なものだった。弱者に過ぎなかった民衆が、日本帝国主義に抗して立ち上がったとき、栄光ある過去と未来をもつ強力な民族の一員となったのである。
3・1運動の最大の意義は、わが民族の集合的アイデンティティー形成に決定的な役割を果たしたことだ。一般的には国家が民族に先行し、民族は国家の鋳型のなかで形成される。しかし「わが民族」は、民族性を解体しようとする日帝の圧制に抗して育まれた。国権・国土が奪われ民族の身体は束縛されても、その魂は消滅することなく民族は精神的統一体であり続け、抵抗の手段と失われたものを取り戻そうとする意志を供給する源泉であり続けた。
3・1運動はまさに、民族史に画期をなしたのであり、この事実は繰り返し強調されるべきだろう。韓国は一貫して、20世紀初頭の愛国啓蒙運動や3・1独立運動を高く評価し、何よりも憲法でその3・1精神を体現した「大韓民国臨時政府の法統」の継承を闡明(せんめい)している。
南側の勢力は戦術的に利用
しかし、北韓の立場はまったく違う。初期の民族主義者の貢献をブルジョワ知識人による効果のない取り組みとして退け、3・1運動も「ブルジョワ事大主義者たちの無抵抗主義的で投降主義的な立場と、外勢に依存して《独立》を得ようと妄想した彼らの売国主義的本質を余すところなく暴露した」と手厳しく否定する。
北韓の態度は、二つの角度から説明できるだろう。一つは、民族なるものを自らの理論的枠組みからはみ出した変則的な存在であると見なすマルクス主義的な伝統である。事実、北韓は民族主義を「民族が自己の自主権と利益のために闘わねばならないことを表面に掲げ、自民族内部のブルジョワジーの支配と搾取を擁護するブルジョワ思想」と切り捨てている。
もう一つは、絶対的な独裁体制を築くには指導者を神格化しなければならず、そのために指導者を民族史上最高位の存在にまで祭り上げざるを得ない体質だ。あまたの愛国愛族先烈と民族運動を、自分だけを浮かび上がらせるために平然と貶める手法である。わが民族を「金日成民族」と称する北韓では、開国の祖・檀君ですら金日成に継ぐ地位を与えられているに過ぎない。
こうした立場だけに徹すれば、北韓の「わが民族」に対する考え方は分かりやすい。しかし北韓には、民族主義者を抑圧・粛清するだけでなく、巧妙に利用してきた歴史があり、それが現在も続いている。つまり、北のそれは抹殺の、南のそれは政略的な利用の対象なのである。
北部に進駐したソ連軍は、中道左派の呂運亨が主導して全朝鮮に組織した建国準備委員会を解体し、民族主義者と共産主義者の同数で構成する人民政治委員会を結成させた。委員長には当時、北部で最も影響力のあった民族主義者・晩植を、副委員長の一人に共産主義者の国内派代表である玄俊赫をすえた。
「現在の朝鮮はブルジョア民主主義革命の段階にある」として、現段階の主導権は民族陣営にあるべきだと論じた玄は、間もなく赤色テロに倒れた。ソ連当局の恫喝にもかかわらず、モスクワ外相会議(45年12月)の信託統治決定に反対し続けたは、軟禁状態におかれたまま6・25韓国戦争時に敗退する人民軍によって銃殺された。
晩植は45年11月、光州学生運動(1929年)の記念日を期して「朝鮮民主党」を発足させ、民族独立・南北統一・民主主義確立を3大綱領に掲げて党員数を急増、3カ月間で北部全域に支部を結成していた。社会主義化へ急傾斜する北部では民族・民主勢力が根強く、反ソ・反共の決起が流血をともなって頻発した。の除去は、彼の存在を恐れた結果である。
南部では当時、呂運亨が中心となった左右合作、臨時政府を担った民族主義者・金九が主導する南北協商の動きがあった。ソ連軍当局と金日成は、これらを対南撹乱のテコに使い、北部における統治権力の実体化を先行させる時間稼ぎに活用した。晩植との連携を模索した金九のたっての願いにもかかわらず、金日成は言を左右して面会すら拒絶している。
概念や解釈に大きな隔たり
6・15南北共同宣言以降、「『わが民族同士』の理念」を常套句とする北韓の統治権力は、民族・民主勢力を抹殺することによって成立し、維持されてきた。「わが民族」という言葉は南北で同じでも、その概念、解釈は大きく隔たっている。しかし、北韓の統治権力が如何に民族主義と民族史を歪めようとも事はそう簡単ではない。
高句麗を中国の一地方政権に位置づけようとする動きが示すように、わが民族の歴代王朝を属邦視してきた伝統的な中華思想。それと対を成して、わが民族を中国の従属物と見なそうとした日本帝国主義の思想。この巨大な力に挟撃されながら、中国・日本と並び立つわが民族の存在意識を形成した初期の民族主義者たちの遺産は、韓半島周辺諸国における民族主義の新たな高まりのなかで、北韓においても無視できない圧力になっている。
(2008.8.27 民団新聞)