掲載日 : [2008-09-03] 照会数 : 7010
フラッシュ同胞企業人<25>業界屈指のパイプ溶接
[ 1936年神戸生まれ。浜松商科短期大学卒。62年に寿産業設立。民団静岡県本部の団長を経て常任顧問。息子2人・孫1人。 ]
スズキ、ヤマハの協力会社
寿産業の姜再慶社長
「価値ある製品をKOTOBUKIから世界へ」を合言葉に、溶接専門部品メーカーとして、より安く、より速い製品づくりを目指してきた。
唯一の韓国業者
スズキ、ヤマハ発動機グループの1次協力メーカー。二輪車や自動車などのフレーム、マフラーといった主要部品を組み立てるためのパイプ加工やプレス、溶接が主な事業内容。なかでも溶接技術は、業界でも厚い信頼と高い評価を得ている。
「フレームのパイプ関係の仕事は、技術力がないと、溶接の熱でひずむことが多い。そのひずみをどうやって最小限に抑えることができるか、技術力の勝負だ」
すべての製品に保険をかける。「品質には万全を期しているが、どんな不測の事態が起こるか、わからないから。これまで大きな事故にあわなかったのは幸いだ」と説明する。もう一つの柱として、自動車部品を載せる設備、つまり運搬台車やパレットなども製作する。
1970年の会社設立と同時に、スズキとの直接取引が始まった。「40年間続けてこられたのは、信頼関係以外のなにものでもない。当然ながら、納期・品質・コストを厳守してきた」
浜松界隈を中心にスズキ協力協同組合に加盟するのは91社。韓国人業者は1社だけだ。それも、スズキ、ヤマハの両社と取引があるのは珍しい。「ホンダとヤマハが競った当時、シェア獲得のため『つくれ、つくれ』の時代で、技術があればどこでもよかった。そのため、ライバル社にも納品するようになった」と振り返る。
東京で商社に就職したが、62年に寿産業を創立。社名は父の名前「寿万」から引用した。兄(故人)がスズキの下請け工場に勤務していた関係で、溶接を引き受けることになった。「家内工業で、午前零時まで働いたのもしばしばだった」。67年に現在のところに移転、70年に法人化した。07年度売上額は12億円、社員は約50人。弟4人が主要なポストにつき、会社を支える。
かつて、「技術は、親方や職人から盗んで覚えろ」と言われた。しかし今は、「溶接にしても、ロボットがやる。極端な話、コンピューターの操作さえ覚えれば、技術は必要ない」。ただし、「ロボットに教えるにしても、どの角度が一番良いのか、手作業のやり方をわかっていないと、できない。最後は人間の技術がものをいう」。
海外の研修生も
退社する人が少なく、勤続年数20〜30年の社員がざらだ。1昨年から、日本政府の依頼でインドネシアから毎年3人ずつ9人の研修生も受け入れている。
近年、材料革命が進み、鉄からプラスチックに変わりつつある。50㏄のオートバイはほとんどがプラスチック製だ。「付加価値がだんだん小さくなった。鉄ではなく、プラスチックを溶接する時代になるのでは」と危機感を募らせ、事業の多様化を模索する。
子どもがボーイスカウトに入った関係で、浜松地区連盟とソウル地区連盟が姉妹結縁を結ぶなど、20年にわたり、交流の橋渡し役を担ってきた。
「互いに往来するなかで、40代で韓国語を初めて覚えた。今でも、韓国に行けば、その関係の人々と会うのが楽しみ。立派になった人が多いからね」。その縁で受賞した世界友愛賞は、「一番の宝物」だ。
◆寿産業(株) 静岡県浜松市南区新橋町428‐1(℡053‐448‐1941)
(2008.9.3 民団新聞)