掲載日 : [2008-09-17] 照会数 : 5597
<社説>北韓の60年とは何だったのか
過ちの連鎖に終止符を
北韓の創建60周年記念行事に金正日国防委員長が姿を見せず、くすぶっていた身辺異変説が一挙に広がり、後継体制の行方と体制崩壊の可能性に強い関心が向かった。核兵器の保有を誇示する国でありながら、体制崩壊が現実味を持って語られ、崩壊がもたらす予測不能な混乱・脅威が取り沙汰される‐そんな北韓が歴史的な節目に見せたものは、華々しいマスゲームとは裏腹の、変化や希望の兆し一つない、不可解で救いようのない現実だった。
北韓の60年とはいったい何だったのか。一国家の功罪を安易に論じることは危険であろう。しかし北韓に関する限り、周辺国を巻き添えにする強力な時限爆弾を内蔵した、自力では生きられない「お荷物国家」という現状がすべてを語りつくしている。
被害妄想と疑心
朝総連の機関紙「朝鮮新報」が「共和国創建60周年‐歴史の現場から」と題した連載の第1回で、1945年9月元山に上陸した金日成主席が建党・建国・建軍の3大課業を提示したとし、大要次のように解説した。《46年2月8日、金日成主席を委員長に北朝鮮臨時人民委員会が組織され、土地改革など諸般改革を通じて反帝反封建民主主義革命が完遂されたのにともない、朝鮮は新しい段階である社会主義革命に入り、46年11月の選挙を経て47年2月、わが国初の社会主義政権である北朝鮮人民委員会が組織された》
分断責任について北韓は、48年5月に単独選挙を行い8月に政府樹立を宣布した韓国側にあり、統一を志向する民族的な正当性は自らにあるとの虚構を築いてきた。それをここでは平然と、47年2月には社会主義政権が成立したとしている。この記述経緯はともかく、分断の既成事実化は北部で先行し、政権形成は48年9月以前、45年10月の党(朝鮮共産党北部分局)結成、46年2月の臨時人民委発足を起点に48年2月の人民軍創設をもって事実上完成していた。
北韓の政権勢力は北部の民族・民主勢力を徹底的に排斥しながら、南部の民族派や中道左派の南北協商・左右合作の動きを利用し、南部の弱体化を工作しつつ強力な軍事国家を築いた。この「成功」と対南優位を演出する理念的な虚構が、その後の連続的な失政を決定づけたといっていい。
軍事力で圧倒的な優位を得た北韓は、南を反統一勢力、米帝国主義、日帝植民地主義残党から解放するとして電撃的に侵攻し、それに失敗すると報復と責任の追及を恐れて被害妄想、疑心暗鬼に陥った。南労党系の指導者たちを「米帝国主義のスパイ」として一掃後も、58年に中国共産党系の延安派、国内生え抜きの共産主義勢力を粛清、金日成神格化を本格的化させて主体思想を党の唯一思想体系とし、権力世襲を合理化する磐石の独裁体制を確立していく。
過剰な自信と理念的虚構による無謀な6・25南侵がなければ、また少なくとも、いくつかあった転換のチャンスに勇気をもって臨んでいれば、これほどまでに異常な偶像崇拝もなく、功を焦っての急進的な集団化による経済体系の破壊も、そしてミサイル経済への転換や核兵器開発による絶望的な体制維持の必要もなかったはずだ。
韓国の攻撃的政策は休戦後の数年間に修正され、重点は経済建設と治安対策に移った。しかし北韓では、経済的優位によって統一の主導権を握ろうとする経済建設派が67年5月に粛清され、1・21ゲリラ事件に始まる攻撃的政策が「統一事業」の名で強化された。いつも掛け声の勇ましい武力強硬派が勝ち、苦境打開を図るたびに必ず袋小路を選択して自らジリ貧を招いたのである。
改革開放に向け
北韓は交渉事がうまいとされている。確かに半世紀以上もの間、韓国や強大国を相手に巧妙に立ち回ってきた。そして現在のこのあり様である。戦略的な誤りがもたらす苦境が戦術的な能力を磨いても、戦術的な巧みさは戦略的な過ちをカバーできない。戦術的に勝利すればするほど戦略的な敗北を深め、人民の利益を守る前衛党が領導する建前にも背き、ツケのすべてを人民に回してきた。
異常な偶像崇拝や先軍政治など、呪縛でしかない北韓の権力維持装置は、党中央として登場した金正日国防委員長によって完成した。しかし、金日成時代が終わったように金正日時代にも終わりがくる。集団指導体制であれ何であれ、今度こそ、勇気を持って過ちの連鎖に終止符を打たねばならない。何よりも改革・開放に舵を切り、人民にツケではなく希望を与えることだ。
(2008.9.17 民団新聞)