「壬辰倭乱と韓・日・中」研修会から
カナダ・バンクーバーのブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)アジア研究室主催による「戦争から見た近世の幕開けと社会変動・朝鮮と日本のあいだ」と題するワークショップ(15〜16日)に招請され、愚見を発表する機会を得た。開催は今回で6回目。「前近代における朝鮮・日本・中国の関係について、これまでとは異なる観点をもつ研究者に発表してもらうことにした。3国は400年を経た現在もなお地政学的に複雑な関係にある。歴史から学んでこれを乗り越える時期に来ている」というのが主催者の弁だ。今後は韓国・日本でも開催していくという。
危機克服のカギ探る
「前近代」に北米も高い関心
テーマは壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)とその後の朝鮮・日本関係が中心だ。参加者は韓国、日本、米国の専門家・研究者ばかり約30人。発表者はUBCから許南麟教授ほか3人、韓国からは東北亜歴史財団の李薫博士ほか1人、日本からは山本博文東京大学教授ほか3人、それに在野の私を含めて計11人だった。
ちなみに、私が招かれたのは大学や学界に属さず、独立的に活動している研究者も発掘したいとの意向があったうえ、特に被虜人の研究者は岡山大学の内藤雋輔氏以来、韓国、日本とも系統的な研究者がいないなかユニークな研究活動に注目したからとのこと。
対馬↓釜山留学も盛ん
日本の論者には、「徳川史観に歪められた秀吉像」や壬辰乱における講和交渉を見直そうとするものが多かった。交渉決裂の理由について、秀吉が明による日本国王冊封に反発したとの俗説を排し、小西行長と加藤清正の角逐などによる抜け駆け多元外交にあったなどとした。
許教授も、「秀吉は現地での軍事的な劣勢を認識せず、朝鮮南4道の割譲、下がって朝鮮王子の日本送致を要求し、これも叶わないとなると朝鮮に朝貢させることで体面を保とうとしたが、朝鮮・明は頑として受け付けず、秀吉の要求が何一つ実現されなかったことによる」と指摘、秀吉の錯覚による情勢判断の過ちと多元外交が終局的に豊臣政権の崩壊を招いたと主張した。
ユニークなところでは、UBC大学院生・金羽彬さんの「近世対馬藩からの稽古生たち」があった。対馬が江戸時代を通じて優秀な青年を釜山に送り、朝鮮語ばかりでなく針灸・鍼灸・眼科・外科などの医学をはじめとして薬学、馬術、馬医、朝鮮菓子まで学ばせ、江戸時代後期には朝鮮学を学ぶ留学生が増えたとの報告である。
私への課題は「壬辰・丁酉倭乱における被虜人の発生とその行方」であった。ここで私は、現代の戦争には見られない民衆の拉致は日本の中世以来の「人取り」の延長であるとして、概略次のように報告した。
「拉致行為が丁酉乱時に激しかったのは、壬辰乱で豊臣軍は約5万人という損傷を受けたためであり、被虜人は徴発された日本の農民の補充として荒れた農地の開墾・開拓に従事させられた。女性や少年が集中的に狙われたが、これも日本中世の戦争の踏襲であった。身分制の時代であったので、地位の高い被虜人は比較的優遇されたし、終戦後の江戸時代初期にはそれぞれの技能や才覚で結果的に日本の産業や文化の発展に貢献することになった」
参席者からは、「韓国人に対する民族的偏見が江戸時代からのものと思っていたが、そうではないことが分かった」などの感想のほか、「2〜3万人以上の民衆が連行されたのだから、痕跡が日本各地方に口伝でも残っているはず。成功した被虜人ばかりでなく、さらに採集して無名被虜人に光をあてる必要がある」との注文があった。
若い世代が活発に発表
壬辰・丁酉倭乱という16世紀東アジアの一大国際戦争、およびそれを契機とする17世紀の国際関係を見直し、現在の東アジアを見直して行こうという研究活動が韓国、日本ばかりでなく、米国やカナダの大学で徐々に高まっていることもさることながら、特に、若い院生から活発な論文発表がなされたことは驚きであった。
東アジアは尖閣諸島(中国名=釣魚島)や独島の領有問題、北韓の過激化する軍事挑発が重なり、先行き不透明な緊張状態にある。主催者の弁にもあったように、韓・日・中3国が歴史に学んで危機を乗り越えて行く上で、こうした研究活動が一助になればと願う。
(壬辰倭乱研究家民団直選中央委員)
(2013.3.27 民団新聞)