「緊急事態宣言」下、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、巣ごもり生活を余儀なくされている人たちが、営業を続けたり再開したりするパチンコ店や飲食店に嫌がらせや中傷する事例が目立った。「自分は自粛要請に従って苦しい生活をしているのに、抜け駆けが許せない」とばかり、処罰感情から私的制限を求めるというもの。こうした排外的な風潮は戦時下の「隣組」を想起させ、危険極まりない。3人の同胞有識者はどう見るのか。意見を寄せていただいた。
自粛警察より「共助」こそ
フリージャーナリスト 姜 誠
「店閉めろ」、「マスクなしで歩くやつは許さない」。コロナ感染拡大にともなう外出や営業の自粛要請が長期化するなかで、他者を過剰に攻撃、監視する「自粛警察」の動きが強まっている。
コロナで発症しても、現状ではワクチンも治療薬もない。自粛で経済が冷え込み、収入も減っている。自粛で外出もままならず、ストレスは高まるばかりだ。
そんな不安に苛まされるよりは、自粛に応じない不心得者を見つけ出し、攻撃することで一時のカタルシスに浸りたい、自らを感染防止の守護者という正義・強者の側に置くことで、安心感や充足感も得られる〓〓。「自粛警察」を名乗り、執ように他者を攻撃する人々からはそんな感情が見てとれる。
「自粛警察」がストレス解消の範囲にとどまっていればよいが、エスカレートすると厄介なことになる。なぜなら、「自粛警察」は感染防止の一助となるどころか、人々の間に分断と対立を生みかねないからだ。しかもその分断と対立は多くの場合、強い同調圧力のなかで強者と弱者、マジョリティーとマイノリティーの間の葛藤となって表出しがちだ。
マスクを入手できない人々、収入を得るために感染リスク覚悟で労働しないといけない人々などは本来、感染拡大シーンでは弱者として守られないといけない人々である。しかし、「自粛警察」はこうした弱者を社会の不心得者として攻撃、排除してしまう。
すでにそうした差別的な兆候は公的なコロナ支援策にも現れている。たとえば、休校により子どもの世話のために休業したフリーランス向け支援では、当初、キャバクラなどの風俗営業従事者は支援金の支給対象外とされていた。また、現在政府が検討中の困窮学生への支援金給付でも、外国人留学生は成績上位30%だけが支給対象となる見込みだ。
もっとも怖いのは「自粛警察」が流言とセットになることだ。
感染症や災害、戦争などが猛威をふるう時には流言が飛び交う。そうして不安が高じれば、単独の「自粛警察」は複数の「自警団」になりかねない。よせばいいのに、「隣組」を作ろうと叫ぶ人も現れるかもしれない。そうなれば、関東大震災時のように、「自警団」が暴走して多くのマイノリティーを傷つけるという悲劇が繰り返されるかもしれない。「自粛警察」はヘイトクライムをも生みかねないのだ。
コロナウィルスは人を選ばない。年代、性別、性向、人種、国籍を超えて襲いかかってくる。
そのコロナとの戦いで必要なのは社会に分断と対立をもたらす「自粛警察」ではない。ウィルスを撃退するための「共助」、そしてその「共助」を可能にする「他者への想像力」である。
マスクをしていない人を指弾すべきではない。「なぜ、マスクをしていないの? 入手できずにいるの? だったら、一枚分けてやろうか?」
そう声をかけて相手の状況を想像し、感染防止のためにマスクを分け合う「共助」へと一歩踏み出すべきである。
そのほうが「自粛警察」よりコロナ対策としてずっと有効なはずだ。
(2020.05.27 民団新聞)