掲載日 : [2019-11-26] 照会数 : 12061
「帰国」決意促した排外・差別と貧困…「北送」60年で資料館が企画展
[ 「北送」の歴史的意味を促えなおすパネル展示 ]
総数9万3340人もの在日同胞と日本人配偶者が「帰国」の道を選んだのはなぜか。在日韓人歴史資料館(東京・港区、韓国中央会館別館3階)は12月14日で第1次「北送船」出航から60年になるのを前にその歴史的意味を捉えなおす企画展を開催している。来年1月25日まで。
企画展では貧困と日本社会のいわれなき差別と排外に苦しんでいた在日同胞が、「帰国」にかすかな生きる「希望」を見出したことを示している。
1959年当時の在日韓国・朝鮮人職業分布(法務省入国管理局「在留外国人統計」1960年)がパネル展示されている。統計によれば「無職(主婦、学生、生徒を含む)」が45万8990人(75・5%)を占めていた。当時は第1次「帰国船」2隻が新潟港を出港した年でもある。
日本のメディアはこの日、「帰還第1船 希望の船出」「北朝鮮へ無事船出 歓呼浴び975人(第1次船)」と歓迎ムード一色の見出しを掲げた。
対照的に「北送反対闘争」を叫んだのが民団だった。「在日韓国人北送絶対反対中央民衆大会」の模様を知らせる写真には「北韓送還反対」「北送決死反対」のスローガンが垣間見える。
断食闘争(1959年9月21~26日)も行った。参加した団員が自らの名前を寄せ書きした色紙が展示されていた。代表は曺寧柱さん(後の民団中央本部団長)だった。
企画展では当時の日本政府による排外的な政策も浮き彫りにした。吉田茂首相(当時)が1949年、連合国軍最高司令官として日本に進駐していたマッカーサーに宛てた手紙には「在日朝鮮人の全員送還を望む」としたためられていた。例外的に居住を認められるのは「日本経済の再建に貢献しうるもの」。この手紙は承認が得られないことを前提にしており、吉田首相のサインはない。
厚生省(当時)も在日同胞が日本国籍を喪失したとされる1952年を期して、生活保護受給者の大多数に対して段階的に停・廃止ないしは減額措置をとっていった。「本問題の解決には帰ってもらう事が先決」という談話には同省のやっかい払い願望が透けて見える。
どん底に追いやられた在日同胞たちに「地上の楽園・北朝鮮」という朝総連の荒唐無稽な宣伝攻勢が徐々に浸透していった。
(2019.11.27 民団新聞)