掲載日 : [2005-04-06] 照会数 : 8130
<本国投資協30周年>「漢江の奇跡」をサポート
[ 社団法人の認可を受けた協会の懸板式=77年1月
] [ 創立30年を祝うレセプション=3月29日、ソウル ]
先進工業化達成へ寄与
海外同胞投資の80%占める
本国の経済発展を自ら担うとの1世の思いが設立させた在日韓国人本国投資協会。自身の財産を惜しまずに本国に投資するという精神は在日同胞の誇りだ。
3月29日にソウル市内のホテルに会員ら100余人が出席して開かれた創立30周年記念式典で郭正昭会長は、「韓日間にはまだ投資分野があり、韓国が今後投資に適したマーケットになる可能性がある。祖国愛を協会設立という実践に結びつけた1世の精神継承を」と訴え、初代会長を務めた李煕健名誉会長に功労賞を授与した。
民団中央本部の金宰淑団長は「在日同胞の本国での存在感を高めるために大いに努力してほしい」と強調した。続いて韓日親善協会中央会の金守漢会長が「日本の良心的な人たちと連帯し、韓日間の新しい歴史づくりを」と激励した。
そのほか、孔魯明元駐日大使や在外同胞財団の李光奎理事長らが在日同胞の支援と協会の寄与が本国経済発展に大きな力になったと高く評価した。
創立30周年までの足跡を振り返って見る。
◆戦後動乱期の韓国経済状況
8・15解放の後、混乱と無秩序がうずまく政局の中で、韓国は農業・漁業などの第1次産業と貧弱な零細製造業が、低迷していた韓国経済を立て直すために、必死にもがいていた。
しかし、これも、6・25戦争の惨禍の中で灰と消えてしまった。戦争は終わったが、相変わらず社会は理念対立による葛藤で無秩序と混乱の状態にあり、さらに自由党政権下の混乱した政治秩序は経済、社会に大変深刻な影響を及ぼしていた。
1960年に4・19義挙があり翌年には5・16政変があった。朴正煕政権は民生苦の解決と自立した経済の基盤確立に総力を挙げるという公約を掲げ、経済開発5カ年計画で工業化と輸出立国という対外思考的な経済計画を樹立、第1次経済開発5カ年計画の期間中(1962〜66年)は、年平均成長率7・6%という当初の計画を超える誇らしい実績を達成した。当時、韓国の工業形態は軽工業分野だけにとどまっていた。67年の韓国産業構造の分析資料によると、第1次産業である農業と漁業が占める比重は全体の40%であるのに比べ、製造業をはじめとする第2次産業は12%に過ぎず、それさえも軽工業が絶対的な比重を占めるという低開発国家の典型的な産業形態を見せていた。
にもかかわらず、政府は継続して輸出主導の経済成長のために工業化政策に総力をあげたため、次第に雇用増大の効果が出てきて経済開発計画に対する国民の積極的な参与も大きな力となり、第2次経済開発5カ年計画(1966〜70年)を着実に推進していった。
第2次経済開発5カ年計画は本格的に基幹産業と先端技術の工業分野に力点を置いたが、工業化を成し遂げるには国内の資本形成が極めて低調で、技術開発や蓄積がほとんどないのが実情だった。それにより政府は65年に外資導入法を制定し、当時、商業借款をはじめとする日本資本を積極的に導入することになった。すなわち貿易政策はポジティブからネガティブシステムに変え、GATT(関税貿易一般協定)に加入するなど米国一辺倒の経済協力体制を脱皮し日本、西ドイツ、フランスなど様々な先進国と経済交流の拡大を試みながら、経済成長をより加速させていった。
第2次経済開発計画は年平均10%に近い驚くべき成長率を見せ経済規模が拡大し、韓国が経済成長期に突入する基盤を作った。しかし外資導入に過度に比重を置いた成長一辺倒の政策を追求するにしたがい、産業の不均衡な成長、内資不足による私債の横行など多くの副作用を産みもした。
◆在日同胞企業人の本国進出
在日同胞企業人の本国進出は韓日協定(65年)以前から独自の形態で成し遂げられてきていた。すでに53年7月に在日韓国人商工会が主導する第1次母国産業視察団が韓国を訪問し、以後にも56年まで3回にわたり視察団を派遣し、本国政府との協力法案を模索した。
これと時を同じくして56年には「在日韓僑生産品輸出組合」「在日韓国人貿易協会」「在日韓国人商工会貿易部会」などが相次いで設立され、母国との貿易拡大を試みた。在日同胞企業人のこのような努力にもかかわらず、韓国政府は大企業を好んで選び、日本の商社との貿易にだけ関心を見せた。同胞企業人たちはソウルで「在日韓国人生産品展示会」を開催するなど大きな成果をおさめ、政府の態度の変化を強力に求めたことで、本国政府から協力支援の約束を得ることができた。
しかし59年、在日同胞の北送問題で韓日関係が悪化したことによって両国間の経済交流はほとんど断絶するようになった。
在日同胞企業人の本国進出が本格的に活気を帯びてきたのは韓日国交正常化の推進が急進展してからだった。合わせて62年から第1次経済開発5カ年計画が予定通り推進され、同胞企業人の本国進出の機会はより目に見えてくるようになった。このとき、本国投資の糸口をつかんだ企業人がまさに徐甲虎会長だ。徐会長は63年1月に故郷に邦林紡績を設立し大規模な資本を本国に投資することで同胞企業人の本国投資活動を刺激し活性化させた。
これを契機に、政府も在日同胞企業人の本国投資活動を積極的に支援するようになり、特に64年8月に造成されたソウルの九老輸出工業団地には在日同胞企業の入居を奨励し、66年7月に17の企業が入居した。
以後、韓日協定が結ばれ本国に進出した在日同胞企業人は、繊維・機械・電子・電気・金属などの製造分野をはじめとしてホテル・観光のようなサービス業まで次第に事業領域を拡大していくことで、輸出促進など祖国の経済発展に大きく寄与していった。63年4月、朴正煕最高会議議長は関係公務員(長官、次官補)に在日同胞企業人の本国投資事業は無条件で支援するよう特命を下した。
◆協会設立への背景と足取り
65年の韓日協定以後、本格的になった在日同胞企業の本国投資活動は目覚しい成長を続け、本国経済の活性化に大きく寄与してきた。特に、政府は外資導入政策の一環から外国人投資家に門戸を開き、海外同胞の本国投資を奨励しただけでなく、行政側も業種、投資金額および投資比率などでの制限を緩和し、積極的に投資環境を準備した。
にもかからず、多数の同胞企業はいろいろな隘路に直面し、経営上の厳しさを味わった。本国進出を希望した企業でさえ本国の経済事情に対する市場調査や研究が思うようにできず、本国進出が容易ではなかった。
それは他国で本国の経済事情を十分に把握することができないという不利な条件と政府の政策に対する誤った分析、そして金融支援において本国企業との差別待遇などに主要原因があると分析できる。このような問題点は、本国に進出する在日同胞企業が少しずつ増えるにつれてより鮮明になった。
母国で活動する在日同胞企業人の困難さは、複雑な投資手続き、機械や部品の輸入にともなう通関手続きの遅延、担保を必要とする金融制度、増資の際の各種の制約、税務と出入国に関連した不利益などだ。
このような問題点を解決するため、在日同胞企業人らは母国での協議機構設置や母国進出企業への情報提供などを本国政府に要請した。また、同胞企業の活性化のためには、円滑に金融支援を受けることができる在日同胞の銀行設立が何よりも急がれるという結論に達した。
このような認識のもと、在日韓国人商工会連合会は73年、許ピルソク会長を委員長にした「本国事務所設立準備委員会」と「僑民銀行設立研究委員会」を構成した。
一方、同年6月に開かれた第6回近畿地区韓国人商工会協議会は、本国投資に進出する企業体の組織構成と本国事務所の開設推進に合意し、9月の会議で準備委員会を構成した。
準備委員会は11月の準備理事会で仮称「在日韓国人母国投資企業連合会」の結成を審議し、翌74年2月5日の結成総会で「在日韓国人投資企業協会」と名称を変更、6月の拡大任員会議で現在の「在日韓国人本国投資協会」となった。
一方、本国の財界でも在日同胞企業の隘路を解決しようと、76年に「在日同胞投資促進協議機構」の設置を政府に建議するなど、多角的な努力を傾けながら政府から海外同胞投資家の保護育成支援の約束を取り付けた。
そして、77年1月15日に本国政府の正式認可を受け、2月に創立総会を開催して社団法人「在日韓国人本国投資協会」が設立された。
◆多彩な事業に献した実績
投資協会は母国投資の促進、会員相互間の紐帯強化、本国の経済政策に対する協助と民族福利への寄与を設立趣旨に誕生した。在日同胞企業人らは韓日協定以後の10年間、日本の先端技術を本国に導入しながら韓国の先進工業化達成に大きな役割を果たすことになった。
数百の企業が電気、電子分野をはじめ金融、観光、レジャー、サービス部門など広範囲に進出し、母国の経済発展に寄与している。63年以降の在日同胞企業人の母国投資資金が、海外同胞全体の投資総額の80%に達していることからも寄与度の大きさがわかる。
本国に進出した企業の円滑な資金支援のため、協会が中心になって設立した第一投資金融は77年8月に営業を開始し、82年には国内で最初の民間資本による新韓銀行を誕生させた。在日同胞が立ち上げた新韓銀行は本国の金融産業の発展を先導し、今では新韓金融持株会社、新韓証券、新韓生命保険などを牽引する優良企業として成長、発展を続けている。
協会の活動は送金、投資誘致、斡旋、税務相談、官公庁との渉外、関係当局への建議・陳情など、本国進出企業の求心体としての役割を担っている。
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本国投資協会主要年表
73年6月 第6回近畿地区韓国人商工会協議会「本国投資進出企業体の組織構成と本国事務所設置推進」に合意
8月 第7回近畿地区韓国人商工会協議会で準備委員会を発足
11月 第1回準備委、仮称「在日韓国人母国投資企業連合会」結成
74年2月 結成総会で「在日韓国人投資協会」出帆、初代会長に李煕健氏
6月 拡大任員会議で名称を「在日韓国人本国投資協会」に変更
76年6月 韓国貿易会館内に協会事務室設置
77年1月 社団法人設立許可取得、設立登記
8月 第一投資金融が営業開始
78年1月 在日韓国人本国投資企業体の実態調査実施
6月 会報創刊号発刊
81年4月 民団、韓商連、韓信協とともに僑民銀行設立請願書提出
10月 新韓銀行設立内認可
82年7月 新韓銀行が営業開始
87年11月 李会長がソウル五輪に300億ウォン伝達、2次分220億ウォンは88年6月に伝達
89年2月 朴鍾氏が第2代会長に就任
8月 事務室を新韓銀行本店社屋に移転
90年2月 第1回ファーストクラブ定期総会開催
99年5月 郭正昭氏が第3代会長に就任
03年6月 協会のホームページ完成
05年3月 創立30周年記念行事開催
(2005.04.06 民団新聞)