大島 裕史(スポーツジャーナリスト) |
映画『海峡を越えた野球少年』では82年鳳凰大旗で準優勝した在日同胞ナインたちの30数年ぶりの再会と当時の秘話などを紹介している |
夏の風物詩にもなっている高校野球。日本では甲子園で熱い戦いが続いている。韓国でもこの時期、高校野球の全国大会「鳳凰大旗」(18〜31日)が開催される。地域予選なしに全国の高校が出場できるこの大会は1971年から始まり、今年が44回目(2011〜12年は不開催)だ。実は97年まで「在日同胞チーム」として、主に甲子園に出場できなかった在日球児が参加していた。鳳凰大旗大会を含めた、在日球児の祖国での足跡を描いたドキュメンタリー映画、『海峡を越えた野球少年』(キム・ミョンジュン監督)が20日から東京のポレポレ東中野で公開される。『韓国野球の源流』(新幹社)などの著作を通して在日野球を取材してきた私もインタビューに応える形などでこの映画に関わった。この映画の意義と在日球児たちの秘話を紹介したい。
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李承晩大統領の招待で景武台(現青瓦台)を訪れた在日同胞チーム(1957年) |
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1,祖国訪問は50年から
各地で超満員に…美技連発でブーム呼ぶ 22年前、ソウルに留学していた私は、鳳凰大旗を観るために、しばしば東大門野球場(07年に撤去)に通った。この時、在日同胞のエースで3番打者だったのは、後に横浜DeNAなどで活躍する金城龍彦だった。150キロ近い速球を投げる金城らの活躍で在日同胞は、ベスト8に進出する。
大会後、チームの宿舎、ソウルのニュー国際ホテルを訪ね、彼を取材した。当時、近大附属高校3年生。将来どうなるか分からない中で、本人の希望もあり、記事化することはできなかったが、この時の経験こそ私がその後、韓国や在日のスポーツの取材をする原点になった。
そもそも在日の野球チームが韓国で試合をするようになったのは、1956年のことである。創刊間もない韓国日報が、知名度を上げるイベントとして企画したものだった。
解放後の韓国野球は、米軍の影響を受けていた。在韓米軍の中には、マイナーリーグの選手もいたが、余暇の遊びの野球に過ぎなかった。韓国には、洗練された日本の野球を観たいという人も少なくなかったが、李承晩政権は、日本人の入国を厳しく制限していた。そこで目を付けたのが、在日韓国人であった。
当時、日本のプロ野球では、史上初の完全試合を達成した藤本英雄、阪神のダイナマイト打線の中核であった金田正泰、国鉄(現ヤクルト)のエースであった金田正一など、多くの在日が活躍していた。
韓国球界では、在日の祖国訪問試合を通して、韓国野球の発展を狙う思いが強かった。そしてその成果は予想を遥かに超えた。在日同胞は、韓国各地を巡回し10数試合を行ったが、球場はどこも満員。その人気が60、70年代に起きた、空前の高校野球ブームにつながった。
在日同胞チームはカバーリング、カットプレーといった守備の連携プレーや、ランニングスロー、滑り込んで、すぐに立ち上がるスタンド・アップ・スライディングなどのテクニックも披露し、観衆を魅了した。
また当時、韓国では野球用具のほとんどが米軍のお下がりを使っていたが、バットなど、米軍の用具は韓国人の体格に合わなかった。祖国訪問をした在日は、使用した用具のほとんどを寄贈して帰ったが、それが韓国では重宝された。
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第2回訪韓団の主力選手たち(左から李成鉉、寿讃、崔大吉) |
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2,あこがれの背番号10
打撃王・張勲がスター 祖国訪問した「在日高校生野球団」からスターも生まれた。その代表が、1958年のメンバーだった張本勲である。「打撃王・張勲」の名は韓国全土に広がった。日本の野球少年の間では、王貞治の「1番」、長嶋茂雄の「3番」のユニホームが人気だったが、韓国の子どもたちには、張本の背番号「10番」があこがれだった。59年には、「野神(野球の神)」と呼ばれ、韓国プロ野球を代表する名将、金星根(現ハンファ監督)の姿もあった。
映画では、57年の第2回祖国訪問に参加した荏原(現日体大荏原)出身の寿讃という外野手を詳しく紹介している。はその後、韓国の実業団でプレーし、韓国代表選手としてアジア選手権優勝にも貢献した。しかし、は韓国で活動しているのに、両親は北朝鮮に「帰国」してしまう。
60年代以降、韓国球界の実力者であった金鍾珞は、政界の実力者・金鍾泌の兄であり、在日の祖国訪問を主導した張基栄は、政界、財界、スポーツ界の実力者でもあった。そのため、総連系であっても、野球がうまければ韓国に呼んだし、それが可能であった。また就職差別が厳しく、日本での活動の場を失っていた在日選手にとっては、政治的思想などは関係なく、野球をするために韓国を選んだ。
とはいえ、南北が厳しく対立していた軍事政権時代、彼らも無関係というわけにはいかなかった。も公安に連行され、拷問を受けたことがあった。彼はそれをきっかけに酒浸りとなり、寿命を縮めた。これも在日の歴史の一断面である。
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82年の第12回鳳凰大旗で準優勝した在日同胞ナイン。決勝まで勝ち進んだ在日同胞チームは校歌の代わりに「故郷の春」を合唱していた |
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3,鳳凰大旗大会の誕生
3大会で準優勝 さて、在日の祖国訪問であるが、60年代までは韓国各地を転戦する形で行われた。しかし在日の祖国訪問をきっかけに高校野球が盛んになると、既に全国大会を主催していた朝鮮日報(青龍旗大会)や東亜日報(黄金獅子旗大会)、中央日報(大統領杯)のように、韓国日報も全国大会主催をめざした。こうして生まれたのが、鳳凰大旗大会である。
この大会で在日同胞は、74、82、84年の3大会で準優勝している。84年大会での捕手は、後に中日などで活躍する中村武志(姜武志)だ。中村は今日、韓国プロ野球・KIAのバッテリーコーチをしている。
映画では82年の準優勝メンバーたちの再会のストーリーをメインとしている。82年の日本の高校球界は、早稲田実業の荒木大輔が3年生の時だ。その夏、パワーアップトレーニングをした池田の「やまびこ打線」が甲子園を席巻し、高校野球を変える。
高校野球では74年から金属バットが導入されたが、当時の金属バットは高校生には重く、前巨人監督の原辰徳がいた東海大相模などを除けば、短く持つのが主流であった。
82年の準優勝メンバーには、その年の春の選抜甲子園でベスト8に進出した箕島の選手が3人いる。
映画に登場する当時の映像には、バットを短く持った選手の姿が、映し出されている。オールドファンには懐かしい、パワー時代が到来する前のコンパクト打法の姿を見ることができる。
またこの年、韓国ではプロ野球が始まる。地域性など、高校野球の人気を研究して始まったプロ野球の誕生により、高校野球人気は急速に衰える。映像には、そうなる前の、高校野球の熱気が映し出されている。
会場は、今日の韓国プロ野球の中心地・蚕室野球場である。蚕室野球場は、この年の9月に開催される世界アマチュア野球選手権に合わせて建設された。
この時はプロチームの本拠地ではなかったので、この年だけ蚕室野球場で高校野球が開催されたのだった。ちなみに、この年の世界アマチュア選手権では、後に中日でもプレーする宣銅烈らの活躍で、韓国が優勝している。
そして鳳凰大旗の決勝戦で在日同胞を破り優勝する群山商のエース・趙啓顕は、宣銅烈らとともに、ヘテ(現KIA)の黄金時代を築く。また、在日に関していえば、その前年、81年の夏の甲子園大会で準優勝した京都商業(現京都学園)には、韓裕、鄭昭相という本名でプレーする在日が2人いて、優勝投手である報徳学園の金村義明も、在日であることを公言していた。いわゆる「本名宣言」という言葉が使われるような、在日社会の変化も映画に描かれている。
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4,韓国プロ野球黎明期
福士、新浦らが大活躍 期せずして映画の中に描かれているのは、日本の高校野球や韓国野球の変化を体現し、自身も変化している在日の姿である。それはある意味、在日の存在の本質でもある。
この大会の在日チーム、最初はそれほど強くなかった。日本の高校球児が誰しも持つ夢は「甲子園」だ。その夢が叶わなかった直後だけに、モチベーションも下がっている。それに、各地から寄せ集めた「即席チーム」であり、レベルが上がっていた韓国チームに苦戦する。
それでもグラウンドに入ると、選手たちは本能的にスイッチが入り、粘りの野球で勝ち進んだ。しかし勝ち進むと、審判の判定が在日に厳しくなる。私も現場で見たが、それはかなり露骨なものだった。
同じ同胞でありながら、悔しい思いや、情けない思いをした選手、関係者も少なくない。それでも祖国訪問は在日球児にとって、素晴らしい思い出となった。
大観衆の前でプレーしたことの感激、大半が初めての祖国、それに日本の学校では、出会う機会が少ない同世代の在日の仲間。映画では、82年メンバーたちの30数年ぶりの再会シーンがある。彼らが韓国で行動を共にしたのは、ほんの数週間だ。それでも時を超えて再会するや、打ち解け合う姿に、いかに韓国での日々が濃厚であったかを物語っている。
82年に始まった韓国プロ野球では、プロの先輩である在日の選手が、「プロとは何か」を韓国に伝える。その代表が、いまだ破られない韓国プロ野球シーズン最多勝利記録、30勝投手の福士明夫(張明夫)や、三星のエースとして活躍した新浦寿夫(金日融)である。
考えてみれば、400勝の金田正一、3000本安打の張本勲、さらに中国系の王貞治の本塁打記録など、日本プロ野球の最高記録の多くが在日が占めていた。
プロは生活をするための手段でもあるが、民族差別など就職の選択肢が限られていた在日には、「職業野球」がより切実であった。それは韓国の実業団でプレーしていた金星根や寿讃とて同じであり、プロ化でそれがより明確になった。在日は日本と韓国で「生きていくための野球」を実践していく中で、輝かしい実績を残していった。
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1957年のメンバーたちは戦争孤児の養育施設「木浦共生園」を慰問した |
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5,時代経て意識も変化
「何かもってくる」から「得るものはない」に? 韓国野球のレベルが上がるにつれ、在日韓国人選手は韓国プロ野球から姿を消していった。近年は在日の選手も、ドラフトを経なければ外国人選手扱いになるため、日本への留学生などを除けば、韓国でプレーする在日はなかなか出てこない。
鳳凰大旗大会に在日同胞が出場しなくなってから20年近くが経つ。こうした在日の歴史を踏まえ、映画を製作したキム・ミョンジュン監督は、「我々は在日同胞に借りがある」と語っていた。
私が『韓国野球の源流』の取材をしていた03年、在日学生野球団の祖国訪問に初期の時代から携わっていた関係者に、97年以降途絶えている祖国訪問復活の可能性を聞いたことがある。その人の答えは、「もう在日同胞から得るものは何もない」というものだった。
韓国が貧しかった時代を生きた人にとって、在日同胞は何かを持ってくる存在であった。それが鳳凰大旗大会で上位に勝ち進んだり、現ハンファ監督の金星根のように、韓国の中で競争相手になったりすると、とたんに差別の対象になる。
今日、不景気とはいえ、韓国が豊かになり、意識が変わってきたことはあるだろう。ただし、キム監督のような見方は、韓国ではまだ少数派だ。多くの人にとって、在日の存在感は薄れているのは確かだ。
在日は経済的な面はもちろん、スポーツでも野球だけでなく柔道など多くの競技で発展に貢献し、あるいは、日本との橋渡しをしてきた。
そうした歴史を、韓国で生まれ育った人はもちろん、在日自身にもよく知らされていない気がする。在日の場合、情報の中心は日本のメディアであることも大きい。この映画を通じて、日本と韓国の中の在日の存在というものを、もう一度捉え直してもいいのではないか。
もっとも、難しい話はひとまず置いて、もう一つの高校野球の青春ストーリーとして、この映画を楽しむのも悪くない。
日本人であれ、在日であれ、その中で寿讃に代表される祖国分断の問題、82年のメンバーたちの秘話を通して、在日のアイデンティティーの問題について、少しでも思いを馳せることがあれば、この映画の意味があると思う。
(2016.8.15 民団新聞)