ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会
ある程度の規模をもつ書店に入ると、すぐ目につくのが「嫌韓嫌中」をあおる本の特設コーナーだろう。電車に乗れば雑誌の、ホームでも売店に置かれた夕刊紙の、扇情的な見出しが追いかけてくる。見慣れた光景と達観するにはあまりに異常だ。こうした風潮に「NOヘイト!」を掲げて登場した「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」。「嫌韓」本の売れ行きにかげりが見えてきたとはいえ、今年は韓日国交正常化50周年、日本の「終戦」・韓国の「光復」から70周年という節目を迎えるだけに、歴史認識をめぐるあつれきは強まりかねず、関係修復への動きさえ拘束しかねない。「加担しない会」のメンバー3氏に、時代の空気と出版業界の実情、会の活動について語ってもらった。
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質量とも度を超えた 岩下
修正主義が深く浸透 真鍋
排外醸成じわじわと 森
差別明らか立ち上がる
−−書店に「嫌韓嫌中」本が目立つように並べられる。それが「日常の風景」になった。危機意識が芽生えたのは。
岩下 さかのぼれば90年代の教科書問題の頃から、歴史修正主義的な流れはあった。一線を越えたのは2005年に発売された『マンガ嫌韓流』だろう。ネット上で蓄積されたアンチ韓国の言説が初めて、出版物という形で公になったからだ。とはいえ、キワモノ的な扱いで、単発のベストセラーにすぎなかった。
今のような危機感を持ったのはここ1、2年で、出版物のなかのヘイト的な言説が、質量ともに度を超えてきた。2012年が一つのターニングポイントかもしれない。民主党政権の下で尖閣問題が起き、李明博大統領の竹島上陸があり、韓国や中国をはっきり敵対視する空気が生まれた。
『呆韓論』(2013年12月)などといった本が大量に出版されるなかで、2013年には「ちょっと異常だぞ」という警告がネットを中心に出はじめ、「愛国コーナー」をつくった書店が非難されたりもした。しかし、あえてコーナーにしなくても、新刊を並べていくと自然とそうなる状況がある。なのに書店だけが非難されるのはおかしい、というのが動機のひとつだった。
もう一つは、在特会が注目を集め、ヘイトスピーチ(差別煽動表現)という言葉が普及したことも大きい。それまで、右傾化という言い方をしていたけれど、そういうものではなくなっているんじゃないかと。嫌韓嫌中本についても、明らかにこれは差別の問題であり、排外主義の問題だという認識になった。
2014年の2月から業界内の知人に声をかけ、3月中旬にフェイスブックページを開設し、3月29日に「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」を立ち上げました。
真鍋 少し細かく、時代をさかのぼると、1991年に、元「慰安婦」の金学順さんらが、日本政府へ謝罪と補償を求める訴訟を起こした。これをきっかけにして、アジア各地から元「慰安婦」の方々が名乗り出た。その後、93年に細川首相の「侵略戦争」発言があり、同じ年に「戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」とする「河野談話」があった。95年には植民地支配と侵略戦争の反省と謝罪を述べた「村山談話」があった。
一方、右派からのバックラッシュも始まり、95年に発足した藤岡信勝氏(当時東京大学教授)主宰の「自由主義史観研究会」は、97年に「新しい歴史教科書をつくる会」へと発展した。教育界や歴史学者などの間で論争になったという記憶がある。98年には小林よしのり氏の『戦争論』がベストセラーになった。
現在は、歴史学や歴史教育に直接関係のない人のところまで、「歴史修正主義」が降りてきた。つまり20年くらいかけて日本社会に浸透してしまったなという印象を持っている。
ネオナチを思い出した
僕が在特会の存在をはっきり意識したのは、2009年の蕨市のデモだ。フィリピン人のカルデロンさん一家の強制退去問題で、子どもが通っていた中学校にデモをかけた。その映像を見たときに、ヨーロッパのネオナチの外国人排斥デモと重なって、ショックを受けた。
森 私は恥ずかしいことに、昨年2月に岩下さんから「書店さんに『嫌韓嫌中』本がたくさん並んでいる状況はまずいと思う」と声をかけられるまで、ぜんぜん気づいていなかった。だから書店の棚を見てまわって驚きました。
真鍋さんが今振り返った90年代半ばからの歴史認識問題についてのバックラッシュは、当時大学生だった私にも注視すべき動きとして目に入ってきた。かなり特異な主張に見えたが、その彼らの著書であっても、現在の「嫌韓嫌中」本のようなタイトルや表現はしていなかったと思う。
一線を越えていると感じるようなタイトルの書籍が並ぶようになったのは最近の状況だし、在特会などがあり得ないようなデモをするのもそう。20年をかけて、排外的な気分を醸成し広げてきた。私は書店の状況に気がつかなかったということへの反省と、有効な対抗をしないといけないということで、この会の立ち上げに賛同しました。
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売れればいいの風潮 森
いびつになる戦争観 真鍋
そろそろ飽きがくる 岩下
定番として残る心配も
−−「嫌韓」は出せば売れる産業として成立したという。
岩下 昨年12月の報道では『呆韓論』が20万部を突破とあった。昨年一年の書籍売上ランキングでも、20位内に入ったのは『呆韓論』だけで、これが最大だと思っていい。どれもがベストセラーになっているわけではない。ただ、出版点数が多いことと、個々がそれなりの部数を売っていることで、総体としての存在感が増しているというのが実情だろう。
朝日新聞の従軍慰安婦誤報問題を特集した昨年10月号の『WiLL』は、17万部を発行し完売だそうだ。固定客かもしれないが、リベラル側の出版物に比べると一桁大きい。
出版というのは一つのブームがあると、似たような本をどんどん投入し、市場を食い尽くして終わるというパターンがある。そういう意味で、嫌韓ブームにもそろそろ飽きがきているという声も聞く。しかし、規模としては大きいので定番として根強く残っていく部分もあると思う。
真鍋 出版社はとにかく売れる本を作るというのが大前提にある。私も含めて編集者はみんなそう思っていて、そんな中で売り上げを確保するために、「嫌中嫌韓」のタイトルを付けた書籍、週刊誌なら特集を組んでいると思う。
森 私が勤務する出版社は、日本の社会進歩や民主主義の発展に寄与するという理念をもって出版活動をしている。日本の戦争責任、植民地支配責任についても、客観的事実にもとづききちんと果たすべきとの立場だ。そういう版元なので、企画活動にとって売れること、採算がとれることは当然要求される課題だが、売れればなんだっていいというのではなく、担当編集者は理念を追求しながら、比較的自由に本づくりができる環境にある。それは、岩下さんや真鍋さんのところもだいたい同様でしょう。
しかし、多くの出版社の場合はそう単純ではない。売れる本が良い本の最大条件とされ、右から左から多様なものを出すという出版社で、編集者が一定の政治的メッセージを含む出版企画を実現していくのは、想像以上に困難さがあると思っています。
岩下 「嫌韓嫌中」本の売れ方にも陰りが見え、あからさまなヘイト本については書店側も置き方を考えるようになってきたが、点数が減ったわけではないし、愛国本や自画自賛本はますます多く出版されている。
そこには出版産業の構造が関係しています。本が売れない、ならば出版点数を縮小するかといったらそうではなく、資金繰りのためにさらに大量の新刊を出し続けるという自転車操業を各社が続けている。結果、いちいち個別の内容を問わなくなるし、一冊の本が長く読み続けられることよりも、この一瞬一瞬どう売るかということにしか目が向かなくなっている。
森 この出版業界の状況を、『NOヘイト!』の著者の一人、神原元弁護士が、戦前・戦中のラジオと新聞の関係にたとえていました。新興メディアのラジオに、旧来の新聞が追われて、と。
岩下 戦時中はラジオの戦意高揚にあおられて、新聞がそれに後追いしたけど、今はネットが牽引役で、出版はそれにあおられている。最近の傾向として、ネットのコンテンツを出版に持ってくるというのは一つの流れ。ブログやyoutubeで閲覧数がこんなにあります、だから本にしたら売れますよと。でも、活字として残る本は、最低限の裏付けや、それがもたらす結果への自覚をもってつくるべきだと思います。
犠牲を強調忘れる加害
−−『永遠のゼロ』は急に売れ始めて映画にもなった。
岩下 それ以前から映画では愛国的というか、戦争をヒロイックに描いて感動させるような傾向が2000年代半ばくらいから続いてきた。少し前なら作り手側にあった「さすがにここは綺麗に描いちゃまずいだろう」というタガが、だんだん外れてきたように感じる。
真鍋 特攻映画でいうと、降旗康男監督の「ホタル」(2001年5月公開)があり、石原慎太郎制作総指揮・脚本の「俺は、君のためにこそ死ににいく」(2007年5月公開)があった。「ホタル」は朝鮮人の特攻兵を描いたりして、歴史に対する痛みに配慮がある映画だったけど、「俺は、君のために…」の方は「特攻賛美」が色濃く描かれていた。
ベストセラーの『永遠の0』はどうかと言うと、東京新聞夕刊の「大波小波」(2014年8月16日)の「特攻体験と戦後69年」というコラムに文芸評論家の加藤典洋さんの解説が引かれ、それに対して加藤さんから「『大波小波』」(同9月9日)に反論があった。
加藤さんは、百田尚樹さんについて、「人を感動させるために、『反戦小説』仕立てのほうが都合がよいとなったら、『イデオロギー』抜きで、というか(自分のものでない)『イデオロギー』までを(作品用に仮構して)読者を『感動させる』ための道具とする新しい種類の作家たちが現れてきているからです。百田氏はそういう新しい小説家の一人」と書いている。僕もその通りだと思った。
最初、作者がどういう思想の持ち主か知らずにあの作品を読んだ時は正直、面白いと感じた。反戦的な小説かもしれないとさえ思った。つまり、人の命をゴミくずのように扱う日本軍の指導層に対して、怒りを持ちながら特攻していくのは、非常に日本人にとっては受け入れやすい戦争観だと思う。
本当はそこに至る歴史的背景を後世の日本人は考えなければいけないのに、あの過酷な状況を日本人は必死に生きた、というところに集中しているから感動してしまう。日本の映画やドラマが戦争を描くと、「尊い犠牲」や「被害」の側面ばかりが強調され、「植民地支配」や「侵略」といった「加害」の側面が欠落しているように思う。日本人の戦争観がかなりいびつなものになってしまっているのではないか。
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根底に歴史への無知 真鍋
リベラル育ちが傾く 岩下
対抗言論を積み重ね 森
靖国参拝は慰撫されに
−−靖国神社への参拝も増えている。遊就館も人気だ。
森 周知のように靖国神社はふつうの神社ではなく遊就館の展示はアジア太平洋戦争が自衛のための戦争だった、アジア解放のための聖戦だった、と歴史的事実を全否定することを使命としてやっているところ。靖国神社を訪れる人のなかには、旭日旗などを持って日本軍兵士のコスプレをしている人がけっこういる。そういうことを平然とやれてしまう背景に、真鍋さんが紹介したような映画や漫画、アニメ、ゲームなどのサブカルチャーの影響があるんでしょうね。
それに靖国神社に行く人は「感動」だけじゃなく、「慰撫」されに行っている。誰だって自分に都合の悪いことを認めるのはしんどい。しかも、何十年も前の、自分は生まれてすらいない時代のことで責められるなんて冗談じゃないと。他人のせいにできたほうがよほど楽です。靖国神社や遊就館は、他人のせいにして責任逃れをするときに感じる後ろめたさを紛らわせ、感動的な物語で慰撫することを確信犯的にやっているのでは。
岩下 そういう人たちは、なんの悪気もなく「日本のために戦った人たちに感謝して」といったことを口にする。百田さんが象徴的ですが、テレビやマンガといった娯楽の領域で、歴史を「コンテンツ」として扱い、いかに泣かすか、感動させるかということをやってきた過程で、それが現実の政治や隣国関係とつながっていることや、別の立場から見れば傷つく人がいることなどを想像しなくなってしまった。
あるいは、娯楽なのだからそういう野暮なことは言うなといった形で、加害や被害の問題を無化してしまう。
それが行くところまで行ったなと思うのはゲームの「艦これ」(艦隊これくしょん)。旧日本軍の軍艦を女の子のキャラクターにして、それを愛でる。クールジャパンとか言うが、海外でどう見られるかと想像してみないのでしょうか。
相似が心配戦争への道
−−3・11以降、日本社会が変わったと言われる。
真鍋 個人的な印象だが、「絆」とか「がんばろう日本」といった言葉が日本中を席巻して、同調圧力が強まった感じがしている。先の『永遠の0』について述べたのと同じになるが、被害感情が充満しているところに、隣国との領土問題などが起きて、「攻撃されている」と感じる人が多くいるのではないか。一方で、その弱った心をいやしてくれる、「日本/日本人のここがすごい」というようなテレビ番組や出版物が目立つようになった。
森 あまりにも巨大な被害を受けて呆然と立ちすくんでしまったときに、「絆」とか「がんばろう」とか、なにかしら一歩踏み出すためのよすがが必要とされたのだろうと思う。私自身で言えば逆に、3・11以前と変わらないでいよう、と意識することでしのいだような気がします。3・11について語られる言葉があまりに繊細になって、とても私には発することができないって思ってしまったので。
多くの方が指摘しているけれど、大震災、経済不況、特定秘密保護法の制定、集団的自衛権行使容認、東京オリンピックという流れは、どこかの国がかつて通った戦争への道と重なる。その相似がとても心配です。そうならないようにしたいから、私はこの会にかかわっているわけで。
−−戦後民主主義の恩恵をもっとも受けてきた団塊世代が退いて、平成の世代が前面に出てきたことも大きな要因とされる。でも60代がいちばん嫌韓本を買っているとか。
岩下 僕もそこは不思議です。戦後の最もリベラルな時代を生きた世代がなぜ今になって排外主義に傾くのか。もちろん、そもそも若者は本を読まないというのもありますが。それまでネット情報にあまりふれていなかった高齢層が、ネットを逆輸入した嫌韓本を読んで、「そうだったのか」と「目覚め」てしまうパターンもあるかもしれません。
−−今年は歴史的に節目の年だけに、出版業界でもすでにいろいろ動きがあると思う。
森 直接に戦争を知っている方が少なくなってきたなかで、どう橋渡しをするかというのが最大のテーマになるだろう。日本はこれまで、戦争体験者たちが戦争は嫌だという強い思いを持って、平和憲法を大事にしてきたと思う。終戦70周年を迎える今、戦争体験のない層が圧倒的になってきたときに、戦争体験者たちの何を残すのか、体験のない人から体験のない人への伝え方にどんな有効な方法があるかというのも、同時に追求しないといけない。
私が戦争を語る言葉には、体験者の証言が持つような重みは当然ないのだけれど、次の誰かに伝わるにはどうしたらよいかという問題意識をこの間ずっと持ち続けている。今年はたぶん、そういうことをテーマにした出版物も各社から出されるだろうと思うし、個人的にも期待しています。
−−韓日国交50周年に対する関心は。
岩下 終戦にくらべれば低いですね。内向きの論調がさらに強まるのではないかと心配です。 真鍋 フェアを組む書店はほとんどないと思う。敗戦、いや終戦70周年に関連する本はたくさん出版されるだろう。昨年は日清戦争120年だったが、どちらかというと第一次世界大戦の方が話題になり、出版物も多かったように思う。韓国や中国との関係からいえば、日清戦争の方がはるかに重要なはずだが……。
応援や共感実感できる
−−「加担しない出版関係者の会」として今年はどんなことを。
岩下 この一年はなんとか走りながらやってきたという思いです。いま声をあげないとまずい、この状況があと4、5年続くときっと手遅れになるという危機感があった。太平洋戦争に突っ込んでいった当時の社会の空気が想像できるようで、寒気がしました。どこまで効果をあげられたかはわかりませんが、少なくとも出版業界にとって看過していい問題ではないという意識が出てきたとすれば、嬉しいですね。 Интим салоны Саратова приглашают всех мужчин и женщин для откровенного общения. Вас рады встретить и насладить проститутки Саратова. проститутки саратова Каждый, даже самый щепетильный клиент, может найти нужный «товар». Сексуально привлекательные девушки просто поражают своим изобилием.
森 たくさんの方から応援や共感の声をいただき、会をやってきてよかったというのが正直な気持。ヘイトスピーチそのものについては法規制へ向けた具体的な動きが出てきたし、司法の場でも在特会による京都朝鮮学校への襲撃事件でかつてない高額の損害賠償命令が確定した。そして、「嫌韓嫌中」本もさすがに飽きられてきたのか、陰りが見えつつある。潮目が確実に変わってきているということではないでしょうか。
私自身はこの出版関係者の会にかかわると同時に、本業でカウンターをしようということで、神原元弁護士著『ヘイト・スピーチに抗する人びと』を企画し出版した。あからさまに「ヘイト」とわかる街場のデモとちがい、出版物は非常に線引きしにくいので、たとえ法制度ができたとしても簡単に規制できるものではないし、するべきとも思わない。
ひとつひとつ対抗言論を積み重ねていくほかない。だから、カウンター本がつぎつぎと出版されることが大事だし、そういう本が出たら、私たちの会でもどんどん応援していきたいと思う。
真鍋 僕は、ヘイトスピーチの根底にあるのは、やはり、日本人の歴史に対する無知があると思う。特に、明治維新以降、近代化を進める中で、日本は朝鮮や中国に何をしたか、植民地支配・侵略戦争に関する事実を知ることが大切だ。しかし、今年は戦後70周年、「加害」の側面が欠落した、「がんばろう日本」的な「安倍談話」が発表されるのではないか。そういう流れに杭を差すために、歴史的事実をきちんと踏まえた本作りをしていきたい。
(2015.1.1 民団新聞)