文部科学省が先月、検定結果を公表した高校教科書(来年度から使用)のうち、主に高校2年生が使う日本史教科書に、これまで鉄板の「常識」とされてきた「史実」に疑問を提起する記述がいくつか現れた。その代表格が清水書院のコラム「聖徳太子は実在したか」だろう。太子の実在をめぐる論争は、邪馬台国の所在地をめぐるそれにはおよばないとしても、古代史ファンを熱くしてきたテーマである。「史実」への疑問提起は、単なる暗記より考察や論述を重視する新しい学習指導要領に対応したものという。せっかくの機会だ。聖徳太子は、韓半島の古代3国も密接に絡む黎明期・日本の象徴だけに、大いなる論議を期待したい。
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「活躍」は東アジア変動期
果敢な多元外交も…廃仏派倒し四天王寺建立
存在抜きには語れぬ日本史
聖徳太子は、その「存在」を抜きにして日本史を語れないほどの巨星として描かれてきた。東アジア外交をそれまでの百済一辺倒から高句麗、新羅との多元外交に転換し、さらには大陸(隋)との直接交渉にも踏み切り、冠位十二階や十七条憲法を制定、仏教の教本『三経義疏』を著し、律令国家への基礎を築いたとされる(十七条憲法と『三経義疏』は後世の作との説も)。
「なにわの津」と呼ばれた古代の大阪は東アジア交流の拠点であり、四天王寺が迎賓館的な役割を担った。このような史実から、著名な古代史研究家らの全面的な協力のもとに1990年、在日同胞によって創始され3年の中断を挟んで大阪市民に定着した祭り「四天王寺ワッソ」でも、諸国の使節・賓客を迎接する日本の中心人物はやはり聖徳太子である。
『日本書紀』(以下、『書紀』)は、聖徳太子が622年(推古30)2月に49歳で没したと記している。だが、生年についての記述はない。太子が没して約100年後に編纂された『書紀』から、さらに100年近く後に編纂された太子伝説の集大成と言われる『聖徳太子伝歴』は、生年を572年(敏達元年)とし、没年を621年の50歳としている。
いずれにせよ、聖徳太子が生きたとされる約50年間とは、日本は豪族間の抗争を経て律令国家への準備期にあり、韓半島では3国統一へのせめぎ合いが激しさを増し、大陸も王朝の交代期にあるなど、それぞれが連動しつつ東アジアに地殻変動をもたらしていた時代である。
百済の聖明王から仏教が伝えられ(『書紀』によれば552年、もしくは538年)、経綸、律師、禅師、仏工、寺工なども百済から渡来していた(577年)。聖徳太子の幼少年期は、仏教が伝わったものの物部守屋による寺院・仏像の焼き討ち(585年)があるなど、祟仏・廃仏の争い、つまり蘇我氏と物部氏による抗争のただなかであった。
聖徳太子の父は用明天皇、母は欽明天皇と蘇我稲目の娘である小娘君(こあねぎみ)の間の娘・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのみこ)とされる。本来の名は厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)である。
蘇我氏の血縁女帝の摂政に
蘇我氏の血を引く厩戸皇子は587年、蘇我氏と物部氏との抗争で蘇我氏陣営に加わり、物部氏を討つのに貢献した。皇子は戦況の不利に臨んで四天王像をつくり、戦勝の暁にはこの像を祀る誓願を立て、それを守って四天王寺を建立したとされる。
厩戸皇子が皇太子となり、女帝とされる推古天皇の摂政となったのは593年(推古元年)。『書紀』にはこの年、「法興寺(飛鳥寺)の刹柱を建て、心礎の中に仏舎利を安置、蘇我馬子以下100余人、百済服を着用して参列」との記述がある。百済との関係が濃厚な、蘇我氏が隆盛を極めたときであった。
『書紀』はそれから2年後の595年に、高句麗僧・慧慈が渡日したと記している。皇太子厩戸皇子の師であり、彼の摂政に大きな影響を与えた人物である。
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隋への「国書」が示すものとは
背景には高句麗…冠位十二階制定にも関与
聖徳太子によるとされる治績のうち、冠位十二階の制定(603年)に注目しよう。それまでの日本の朝廷における地位は、蘇我氏のような臣(オミ)や物部氏のような連(ムラジ)などという、世襲の氏(ウジ)の単位の姓(カバネ)で表しており、個人の地位を示す制度がなかった。
『隋書』倭国伝(以下、『倭国伝』)には、600年に倭国から使節が来朝したとの記述があるのに対し、なぜか『書紀』にはない。この隋への使節は事実とする見解が多く、派遣したのも聖徳太子とされる。太子は607年にも小野妹子を代表とする遣隋使を送った。こちらは『倭国伝』にも『書紀』にも記述がある。
冠位十二階の制定は1回目と2回目の遣隋使派遣の中間時点だった。『倭国伝』は、600年の遣隋使について、隋の高祖(文帝)が外交儀礼を失していると指摘し、以後改めるよう諭したと記録している。日本から中国への使節派遣は、「倭の五王」の「武」以来120年が経過していたことから、服装や外交文書の書式など礼儀に疎かったと見られている。
大変なカルチャーショックを受け、急いで冠位十二階を制定したはずである。607年遣隋使の小野妹子が、冠位第5位にあたる「大礼」の肩書で代表を務めたのはその証であろう。『倭国伝』も冠位十二階に言及している。
『倭国伝』を参照していたとされる『書紀』の執筆者が、600年の遣隋使に触れなかったのは、正式な使節とするには恥ずかしいと考えたのかも知れない。
冠位の制定は高句麗の制度を参考に、僧・慧慈が指導したとされる。百済と密接な蘇我氏の全盛期にあって、高句麗の存在感が大きくなっていたのは間違いない。聖徳太子が607年の遣隋使に託した「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」の文面で有名な国書にも、その影響がうかがえよう。
『書紀』にない「国書」の記述
隋の煬帝はこの文言に激怒した。「日没する」の部分に対してとも言われるが、蛮夷の倭王が自分と同じく「天子」と称したことにあったとの解釈が一般的だ。この国書は『倭国伝』に記載されているだけで、『書紀』は触れていない。
文面についての解釈はさまざまだ。東方の国のトップから西方の国のトップへのご機嫌伺いの域を出ない、いや、挨拶文の様式をしらなかっただけ、といった見方もある。だが、そうだろうか。
日本は遣隋使を派遣しても、臣下の礼をとって冊封関係を結ぼうとはしなかった。大国・隋を向こうに回して、謙虚に学びはしても対等であり、少なくとも服属する関係ではない、との気概を込めたのかも知れない。だが、その気概とは、中国王朝に朝貢する事大的な韓半島諸国との本質的な違いを示したもの、とする後代の解釈は適切ではあるまい。
隋は当時、高句麗と戦争状態にあった。聖徳太子が託した国書に、師・慧慈の、つまり高句麗の随に対する意向が反映された可能性は高い。煬帝が日本の強気とも言える姿勢に耐えたのもやはり、高句麗との戦争によって疲弊した自国の状況を意識したからであろう。
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真の実力者は蘇我馬子
百済系有力者が始祖…天皇さえも意のままに
信頼性の高い『隋書倭国伝』
600年の遣隋使も、聖徳太子が派遣したとされる、と書いた。その遣隋使について『倭国伝』には、派遣した倭王は姓をアメ、字(アザナ)はタラシヒコ、オオキミと号す、とあり、倭国の王は「アメノタラシヒコ大王」という男性ということになる。当時の天皇は女帝・推古であり、太子は摂政としてこれを補佐したとする『書紀』の記述とは合わない。言うまでもなく、『書紀』にアメノタラシヒコなる人物は登場しない。
遣隋使にかかわる記述では、『書紀』と『倭国伝』に対応しているところが多いとされる。『倭国伝』は、小野妹子ら多数の留学生や使節、隋使として渡日しアメノタラシヒコ大王に直接会った裴世清らに取材し、しかも隋の滅亡(618年)後すぐに書かれた。ほぼ同時代のものとして信頼性の高い史料に、倭王は男性と書かれているのだ。
この題材は古くから論争を呼んでおり、一般的な解釈は、日本側が女帝であることを隠し、摂政である聖徳太子を「天皇」に見せかけたというもの。『倭国伝』に依拠すれば、女帝・推古(在位593〜628年)は実在しなかったか、600年には退位していたことになる。あるいは、太子の死後から6年間だけの在位だったのか。
6世紀末から7世紀前半の日本で、真の実力者と言えば蘇我馬子をおいてほかにない。父・稲目の代から続いた物部氏との抗争に勝ち、朝廷で並ぶ者なき存在となった。592年には、祟峻天皇を自分の意のままにならないからと暗殺している。その後の推古も、馬子の意向で即位したのであり、摂政とされた太子も蘇我氏の血流であることはすでに触れた。
『倭国伝』に登場するアメノタラシヒコ大王と同時代に、蘇我馬子こそ天皇をしのぐ権勢を誇っていたと見るべきだ。一部で提起されているアメノタラシヒコとは蘇我馬子その人であったとの説も、一定の根拠を持つことになる。
蘇我氏の一族天皇も出た?
蘇我氏とはそもそもいかなる存在か。仏教に帰依し、一貫して百済との関係が深いこの一族を百済から渡来した有力者集団とする見方が強い。その始祖について、5世紀の百済の将軍・木満致とするもの、蓋鹵王の弟、昆支王の末裔というものなどがある。
蓋鹵王の命によって昆支王が渡日したのは461年のことだ。妊娠していた妃をともなっていた。妃は途中の筑紫・各羅嶋で出産したのでその子は嶋君(しまのきみ)と名付けられ、母子はすぐ百済に送り返された。その子が後に武寧王になったという記述(以上、『書紀』)は、武寧王陵の墓誌に書かれている王の生年(462年)と極めて近く、信憑性が高いとされている。
ただ、百済の正史『三国史記』百済本記に昆支王が日本に渡った記録はない。それでも、他の歴史書(『百済新撰』、『宋書』など)との比較研究で、昆支王の渡日と武寧王の日本での誕生は事実ではないかとの説はなお有力だ。
昆支王はその後、雄略、武烈、または応神天皇(応神の治世を繰り下げて)になったとの説もある。いずれにせよ、蘇我氏が百済の将軍や王族の子孫であり、一族から天皇(大王)が出た可能性は否定できない。
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聡明な人物いたはず
新羅とも深い関係…花郎の弥勒信仰を媒介に
聖徳太子に話を戻そう。何と言っても興味深いのは、百済一辺倒であった蘇我馬子の全盛期でありながら、太子は親百済の路線を改め、高句麗、新羅との関係を強めたことだろう。
両者ともに仏教に深く帰依しながらも、蘇我氏が受容した仏教は、氏寺・飛鳥寺の大仏に見られるように、中国南朝(東晋・宋)経由の百済仏教である。しかし太子のそれは、師と仰いだ僧・慧慈が象徴する北朝(前秦・北魏)経由の高句麗仏教、そしてその系譜にある新羅仏教に近い。
新羅から渡来した秦氏一族の秦河勝と太子は親しく、河勝は太子の最側近でもあった。河勝が創建した京都・太秦の広隆寺の本尊・弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)は、603年に新羅・真平王から太子に贈られたものとされる。新羅では花郎制度と弥勒信仰が深く結びついており、真平王は太子を日本の花郎=弥勒としてその徳をたたえていたからではないか。
斑鳩の中宮寺の弥勒菩薩像も太子の弥勒伝説とかかわりがあり、日本にある弥勒菩薩像の多くが新羅製か新羅から渡来した仏師の作とされる。太子を弥勒の生まれ変わりとする伝説はその後広く定着していった。
聖徳太子の東アジア諸国に対する基本姿勢は等距離外交にあり、同じ血脈に属すとされた蘇我氏の鮮明な親百済・反新羅とは大きく異なる。太子が氏寺・法隆寺のある斑鳩に本拠地を移したのも、飛鳥の蘇我馬子と距離を置くためであろう。
斑鳩の地は、太子の妃のひとり膳郎女(カシワデノイラツメ)の実家である膳氏の本拠地であるだけでなく、大和と難波を結ぶ竜田街道という交易ルートの要衝でもある。難波から飛鳥をつなぐ竹内街道が主に百済との交易ルートであるのに対して、竜田街道は高句麗や新羅との交易が中心であったともいう。
太子が死んだとき高句麗に帰っていた慧慈は、翌年の太子の命日に死ぬと言ってその通り死んだとの伝説がある。また、真平王は太子の死から5カ月後に、日本に使者を送って仏像、金塔、仏舎利などを贈り、仏像は広隆寺に、金塔と仏舎利は四天王寺に納められたという。
子が滅ぼされ血脈は絶える
蘇我氏一族とされながら、太子の子・山背大兄王一族は蘇我入鹿に滅ぼされ、太子の血脈は絶たれた。
謎めいているとはいえ、後に聖徳太子と呼ばれた聡明な人物は実在していたはずだ。その正体は、百済・高句麗・新羅が日本への影響力を競った時代に、百済系の大物・蘇我馬子の権勢を押し返し、高句麗‐新羅仏教に傾倒して多元外交を展開するだけの、天皇(大王)かそれに匹敵する実力者であったに違いない。
(文中の年次、『書紀』の記述については、吉川弘文館発行の『対外関係史総合年表』に依拠した)
(2013.4.12 民団新聞)