掲載日 : [2020-01-28] 照会数 : 14799
ロッテ創業者の辛格浩氏が逝去…韓国の経済成長 牽引
[ 執務室の辛格浩氏 ] [ ソウルロッテホテルの開業式で(78年、左から2人目) ]
製菓業、百貨店、ホテルなど韓国5大財閥に
民団中央本部の元顧問でロッテグループ創業者の辛格浩氏が19日、ソウル市内の病院で死去した。98歳だった。
祖国解放直後、廃墟の中でガム売りからスタートし、韓国5位の財閥にロッテを育て上げた。日本での石鹸やガム製造事業で得た資金を韓国に投資し、製菓、観光、流通、免税店ビジネスなどを成功させた現代韓国で最高の経営者の一人だ。
一方で団員の一人として、民団への支援も惜しまなかった。民団中央本部、東京本部、新宿支部などの顧問を務め、特に民団が2001年から開始した次世代育成の大イベント「オリニ・ジャンボリー」には毎回、お菓子やロッテワールドのチケットの提供をはじめ、多くの賛助を寄せた。
辛格浩氏は日帝植民地時代の1922年10月4日(戸籍上の生年月日で実際は21年11月3日)に現蔚山市の農家に5男5女の長子として生まれた。教育熱心な父親のおかげで彦陽小学校、蔚山農業専門学校を卒業し、道立種畜場に就職したが、自身と家族のためもっと大きなことをしたいと1年で辞め、41年に日本に渡航した。
東京で牛乳・新聞配達をしながら夜は進学を目指して神田の予備校に通う苦学生だったが、配達員でありながらほかの配達員を雇うほど、早くから卓越した経営能力を見せ、日本人投資家から当時としては多額の5万円を借り、切削油の製造に乗り出したものの、工場が2度も米軍の空襲を受ける挫折を味わった。
46年3月に早稲田高等工学校を卒業すると、東京に「ひかり特殊化学研究所」を設立し、石鹸、ポマード、クリームなどの油脂製品を製造。敗戦後、日用品不足が深刻だった日本で飛ぶように売れた。
翌年4月、ロッテのルーツでシンボルでもあるガムに目を付け、米国製品をまねた粗悪品があふれていた中、当時としては最高レベルのガムを作り出し大ヒットさせた。この成功を基に48年6月、従業員10人で株式会社ロッテを創業した。
社名の「ロッテ」は苦学生時代に読んだゲーテの小説「若きウェルテルの悩み」のヒロイン、シャルロッテにちなむ。自社製品が彼女のように愛される存在であってほしいという思いを込めた。
この後、ロッテは日本のガム市場で7割のシェアに成長し、チョコレート、キャンディー、アイスクリーム、ビスケットなど、次々に新製品を発売して総合菓子メーカーとしての地位を確立した。
ガム会社から始まったロッテは80年代半ばには、商事、不動産、電子工業、プロ野球、ロッテリアなどを抱える財閥企業に成長していた。
事業が安定すると、59年、母国である韓国にロッテなどを設立しガムやキャンディー、ビスケット、パンなどを製造していたが、経営を韓国の弟たちに任せていた。
韓国での経営に本格的に乗り出したのは、65年の韓日国交正常化、66年の在日韓国人の法的地位を定めた協定の発効により、韓国への投資の道が開かれてからだ。
日本でのビジネスと同様にまず製菓業に投資し、67年4月にロッテ製菓株式会社を設立、高品質ガムを販売し韓国でもガムのトップメーカーとしての名声を高めた。
その後、グループ化し、韓国最大の食品会社に発展した。食品のほか、観光と流通を韓国に必要な基盤事業と見なし「韓国を観光立国に」との信念を持ち、78年にソウル・小公洞に地上38階、客室約1000室のロッテホテルをオープンした。
79年にはホテルに併設する形でロッテ百貨店を開業した。当時の百貨店の2~3倍の規模で、顧客サービスなど、質の面でも先進国の店舗と張り合える百貨店となり、韓国の百貨店の革命的存在となった。
この後、食品、観光、流通、建設、化学などの分野にビジネスを広げ、89年には当時、世界最大の屋内テーマパークとしてギネス世界記録に認定されたロッテワールドをオープンさせた。
90年代からコンビニエンスストアやIT、スーパー、映画館、ネット通販、クレジットカードなどの分野に事業を広げ、ロッテを韓国財界5位のグループに押し上げた。
そして17年4月に宿願だった韓国最高層ビル、ロッテワールドタワー(123階、高さ555メートル)を開業させ、執務室兼住居を小公洞のロッテホテルからロッテワールドタワーに移した。
韓国では「漢江の奇跡」と呼ばれる、韓国の急速な経済成長の主役を担った10大財閥の創業者が全員亡くなり「財界の第1世代の時代が幕を閉じた」と報じている。
(2020.01.29 民団新聞)