両親の故郷である済州島は、朝鮮王朝時代に流刑地として知られた。ドラマ「宮廷女官 チャングムの誓い」でも、濡れ衣を着せられて済州島に流されたチャングムが、そこで医療を学んで再起をはかるというストーリーになっていた。
実際に済州島に流された人の中で身分が一番高かったのは、15代王・光海君である。
彼は長く暴君のように言われてきた。1623年にクーデターによって王宮を追われたのだが、代わって王位に就いた16代王・仁祖が意図的に光海君を暴君に仕立てあげた側面もあった。
確かに、光海君は王位を安定させるために兄や弟を死に追いやった張本人だが、豊臣軍の攻撃で荒廃した国土を復興させるうえで功績も残していた。
ただし、側近が腐敗していたのも事実で、それを口実に仁祖に王座を奪われ、江華島に配流された。ここなら、都から近いので光海君もそれほど寂しい思いをしなかったと推定されるが、光海君の復位を恐れた仁祖は1637年に光海君を江華島から済州島に移してしまった。
当時の済州島は、さいはての地。ここに流されるのは、重罪人ばかりだった。
護送を担当する役人も心得ていて、光海君が大きな衝撃を受けないように、船の周囲に幕を張って行き先の方向がわからないようにした。それでも、済州島に着けば、ここがどこかはすぐにわかってしまう。光海君は「なぜ、こんなところまで……」と言ったきり絶句して、涙もかれるほどだったという。
済州島の役人も、よほど光海君を哀れに思ったのだろう。
「ご在位でいらしたときに、奸臣を遠ざけて、良からぬ輩が政治に関わらないようにされておられれば、こんな遠くまでいらっしゃることはなかったのですが……」
役人はこう言って光海君をなぐさめた。
済州島に来てからも、光海君は様々な屈辱に堪えた。見張り役のほうが格上の部屋を使ったり、世話役の女性に軽視されたりしても、彼は先君としての威厳を保ち、毅然と生き抜いた。
同じようにクーデターで王宮を追われた王といえば、10代王・燕山君である。この王の場合は江華島に流されてからわずか2カ月で病死している。よほど江華島の水が合わなかったのだろう。
光海君は済州島でも規則正しい生活を続け、この地で1641年に世を去った。享年66歳だった。
当時、陸地と島を結ぶ船が発着した港は、済州島北部の朝天だった。この朝天には恋北亭というあずまやがあって、北の海をよく見わたせる。「北」とはもちろん、都がある方向だった。
王朝内部の政権争いに敗れて済州島に流罪となった高官たちは、恋北亭によくやってきては、北の海を見ながら都にいた時期の栄華を特別になつかしがったという。
光海君も恋北亭にやってきて、北の海を見ては涙を流したのだろうか。
今も恋北亭は残っていて、夏には地元の人たちの夕涼みの場所になっている。
康煕奉(作家)
(2012.7.25)