韓国文化院、東京韓国教育院主催「韓日交流エッセイ・フォトコンテスト」の表彰式が22日、東京・新宿区の韓国文化院で開かれた。日本語と韓国語のエッセイ部門、フォト部門に、子どもから一般(大学生、短大生、専門学校生など)までの幅広い世代から852点の作品が寄せられた。最多応募(417点)となった「日本語エッセイ」の最優秀賞の一般部門は趙栄順さん(東京・大田区)、高校生部門は秋山咲貴子さん(福岡女学院高等学校3年)、中学生部門は川崎諒君(五戸町立五戸中学校2年)。3作品とも自身の体験を通して、両国の交流の大切さを強調している。要約して紹介する。
■□
一般部門
韓服 着てくれた嫁ら…趙栄順さん
「韓国服が結ぶもの」(趙栄順)は、同胞同士で見合い結婚をした筆者と、日本の青年と結婚した在日3世の娘への思い。そして、娘の花嫁衣裳として誂えたチマチョゴリが結ぶ不思議な縁について語っている。
◇
娘が嫁いだのは5年前の春だった。相手は、大学のサークルの先輩。日本の青年である。娘は在日3世、いわば国際結婚であった。
「日本人との結婚は絶対に許さない。どうしてもと言うなら、その時は親でもなければ、子でもないと思え」同胞同士の結婚。それは、父の厳命であった。
父が慶尚南道の田舎に生まれたのは、日帝時代。食うに困った祖父母は、当時2歳の父を背負って海を渡った。東京に居を構えて、屑鉄屋を始めた。当時の在日の御多分に洩れず、父の家族は貧しく辛い経験をしてきた。苛められ差別を受けてきた父にとっては、日本に対する〞恨〟は根強いものがあったようだ。
多くを語りたがらない父の心の傷を、肌で感じながら育った二世の私は、父を裏切るような結婚はすまいと誓った。見渡せば日本人という環境のなかで、私は日本人に対する恋心を封印した。聞けば、夫の父も同じだったという。
一男一女に恵まれた私たちは、しかし、一世のようには子どもたちを育てなかった。仕事も結婚も、本人の自主性と自由を尊重しようと決めた。子どもが愛した人ならば、国籍は問うまいとも思った。
娘の結婚式。お色直しは、新郎は羽織袴を、新婦は韓服を身につけた。 三十年前の私たちの時代には、考えられない光景だった。
お互いが、それぞれの民族衣装で、お互いを尊重する。それを、無理なく表現できる時代なのだと、私たちは感慨無量であった。
3年前の秋、息子も同期入社の日本人女性と結婚した。お嫁さんは、「お義姉さんの韓服を着たい」と言ってくれた。韓国人に嫁ぐ思いを、彼女も健気に表わしてくれた。
そして、この夏は、甥が日本人女性と式を挙げた。彼女もまた、この薄紅色の韓服を着てくれた。オッコルムを結んであげながら私は、こんなふうに韓国と日本が繋がっていくことの不思議を思った。
韓国人と日本人は、同じ茎に咲く花のようなもの。一着の韓服が、それを教えてくれている。
■□
高校生部門
言葉が生きた出会い…秋山咲貴子さん
「今だからこそ伝えたいこと」(秋山咲貴子)は、韓国語を学んでいた筆者が偶然、電車で乗り合わせた韓国人の男女2人と出会い、その後、韓国で再会し交流を深めていく経過を紹介しながら、相手の言葉を学ぶことの重要性に言及している。
◇
男性の方が私に、たどたどしい日本語で何かを尋ねてきました。
私は、うまく聞き取ることができなかったのですが、たぶん電車の行き先について聞いてきたのだと思い、韓国語で「この電車は天神行きですよ」と返したところ、相手の方は私を韓国人だと間違えて、「あ、韓国人だったんですね!」と言ってきました。
それで、私が日本人だと伝えたところ、それがきっかけとなって話が広がり、電車の中で韓国語での会話がはずみました。そして、相手の方々が、「韓国へは、来る予定がありますか?」と聞いてきたのです。私は、「はい、9月末に韓国に留学中の姉に会いに行く予定です」と伝えました。
すると、相手の方々が、「このように出会ったのも何かの縁ですし、韓国に来る時は連絡をしてくれたら案内しますよ」と言ってくださいました。
韓国へ行く前に連絡をして、9月27日土曜日の夜、そのお二人と私の姉と私と4人で、食事の約束をしました。そして、食事をしながら、私たちが出会った時のことを振り返りました。相手の方も私も、このような出会いは初めてだったので、本当に縁があって私たちは出会ったんだとおっしゃっていました。
今から振り返ってみると、私が韓国語を学んでいなかったら、あの電車の中で韓国の方々から何か尋ねられても、対応できなかったと思います。しかし、私が韓国語を学んでいたからこそ、対応することができ、そして、そこからさらに深く交流することができたのだと思います。
この不思議な出会いを通して私が感じたことは、「言葉が理解できないと深い国際交流(理解)はできない」ということです。国際交流においては、相手の言葉を学ぶことは相手のことを理解するひとつの重要な手段であり、文化を共有する手段でもあるということを強く感じました。
■□
中学生部門
楽しんだ文化の違い…川崎諒君
「私が感じた韓国」(川崎諒)は、海外派遣で、7月23日から27日まで、韓国の沃川郡とソウル市を訪問したときに体験した、日本とは異なる韓国文化の違いを素直に表現している。言葉は通じなくても、コミュニケーションは取れると、自信につながった。
◇
韓国に行って最初に驚いたことは、車の車線のことです。韓国は日本に近い国だから、てっきり左車線だと思っていましたが、アメリカなどと同じ右車線だったことにびっくりしました。だから、初日は乗り口が逆なことや右車線であることに違和感を覚えました。
次に驚いたことは料理です。色々な料理を食べましたが、一番印象に残っているのは、代表的な料理であるキムチでした。
普段から辛いものを食べている韓国人にとっては、日本でいう漬物感覚で食べているのかもしれませんが、辛い物に慣れていない私たちにとっては、すごく辛くて食べるにも一苦労でした
料理以外の食文化にも驚きがたくさんありました。食器が木製ではなく、すべて金属製であったことにもびっくりしましたが、何よりも驚いたのが食事のマナーについてです。
私は幼い頃から食器は持って食べるものと教えられてきましたが、韓国では周りを見ても食器を持って食べている人はいませんでした。
すると、通訳の人から「韓国では昔から食器を持たない習慣があって、持つことは逆にマナー違反になるんだよ」と教えられました。近くの国なのに、全く正反対の文化があることにびっくりしました。だから他のマナーでも日本と違いがないか調べてみたいと興味をもちました。
韓国人との交流は韓国語がしゃべれないため不安でした。しかし、言葉が通じなくてもジェスチャーや簡単な英語を使うと、相手が言いたいことを理解できるし、自分が伝えたいことを伝えることができました。今回のように違う国の人ともコミュニケーションをとることができたので、外国の方との交流に少し自信をつけることができました。
今回の韓国訪問では文化の違いを体験できてとても勉強になりました。また韓国に行って色んなことを勉強したいと思います。
(2014.11.26 民団新聞)