掲載日 : [2004-12-22] 照会数 : 7576
新5千円札の《顔》 樋口一葉切ない恋(04.12.22)
[ 樋口一葉(1872‐1896) ] [ 半井桃水(1860‐1926) ]
お相手・半井桃水は知韓派だった
「春香伝」日本に初めて紹介
釜山発の原稿次々発信
庶民の〞情〟を理解して
新5千円札の《顔》になって、樋口一葉がちょっとしたブームだ。当然ながら、一葉の唯一人の恋人・半井桃水(なからいとうすい)にも話題が及んでいる。しかし、彼が《知韓派》の作家だったことにはほとんど触れられていない。
一葉が桃水と初めて出会ったのは1891(明治24)年4月15日。一葉19歳、桃水31歳の時であった。このころ一葉は、没落した一家を支えるために新聞小説を志したばかりで、朝日新聞の小説記者として活躍していた桃水に弟子入りした。やがて一葉は、妻と死別し独身でハンサムな桃水に師以上の感情を抱く。
ところが一年後、彼女は「絶縁」を通告する。桃水は一葉以外の女性にも面倒見がよかったらしい。一葉は周囲から桃水との交際をやめるよう、しきりにアドバイスを受けていた。そんな折り一葉は、桃水の弟と恋仲の女性が身籠ったのを桃水が妊娠させたと思い込んだ。これは最後まで解けず、「一葉の誤解」として有名である。
しかし、一葉の日記などによれば、桃水への恋心は彼女が24歳で夭折するまで変わらなかった。有名作家となった彼女に、かつての許婚者や文学仲間、出版社の御曹司などが言い寄るが、どれもキッパリと断っている。
桃水は1860(万延元)年、対馬藩医の長男に生まれた。1872(明治5)年、12歳の桃水は倭館付の医者であった父の助手として釜山に渡る。彼は2年後に帰国するまでに、朝鮮語をマスターし、飴売りの少年とも親しくなったと後に述べている。
この頃日本では、維新に対する朝鮮政府の対応に不満が募り、「征韓論」が台頭していた。彼の釜山滞在中にも、新政府は貿易実務を対馬藩から商社へと一方的に変更し、三井組(三越)の手代を釜山入りさせた。朝鮮政府は友誼的慣例を無視したとして激怒、倭館の門前に抗議文を掲示した。
桃水がこの一文を官吏に頼まれて翻訳したところ、日本政府にはそのまま送稿された。その後、日本では「征韓論」が沸騰した。桃水は、自分の行為が「征韓論」を刺激したのではないかとの自責の念を持ったという。
1875年、江華島で日本軍艦・雲揚号への「砲撃事件」が起こる。この事態に日本世論は激高するが、新聞論調は意外に冷静で、有力新聞「東京日々」や「郵便報知」などは武力行使反対論を展開した。15歳の学生だった桃水も、「東京日々」に武力行使反対の投書を送り、掲載されている。
1882年、再び父の助手として釜山に赴いた彼は、朝日新聞嘱託の釜山特派員となる。彼が滞在した1887年までの5年間に、壬午軍乱、甲申政変などが起こった。桃水はこの報道で名をあげ、朝日は売り上げを一気に伸ばした。
しかし、彼が得意としていたのは、花柳界や庶民の風俗など、朝鮮の日常を伝えるルポ記事やハングル入門のような文化ネタであった。なかでも特筆すべきは、『春香伝』を日本に初めて紹介したことだろう。彼の翻訳で朝日の連載小説になった(1882年)。
小説家志望だった彼は帰国後、小説記者として朝日新聞に正式採用される。彼の代表作『胡砂吹く風』は、対馬藩士が釜山で両班の娘と恋に落ちるストーリーで、この小説の巻頭を一葉が和歌で飾った。連載中(1891〜1892年)がちょうど、一葉との「師弟関係」の時代に当たる。
1894年の日清戦争以降、日本世論が対朝鮮強硬論に大きく傾いても、彼の姿勢はそれとは反対のものだった。1895年に連載された『続胡砂吹く風』では、日・朝・中・満の政治的・文化的独立と緩やかな同盟関係を夢想している。
しかし事態は、日本の韓国併合から大陸への帝国主義的侵略へと突き進む。彼の立場はもはや所を得ず、朝日の朝鮮報道ばかりか日本の文学界からも逸れていった。
桃水の朝鮮への思いは、政治的な世論には左右されない、少年時代に釜山で培った情そのものであったのだろう。「ある明治人の朝鮮観・半井桃水と日朝関係」を書いた上垣外憲一氏は、「桃水の書き方は基本的に公平、それから朝鮮に対しては同情的と言えると思う。朝鮮での生活体験は長く、朝鮮の人たちがどういう風にものを感じるかが分かっているから」と記している。
吉成 繁幸(フリーライター)
(2004.12.22 民団新聞)