掲載日 : [2005-01-01] 照会数 : 5236
新春論説 思い起こそう在日の原点(05.1.1)
[ 山口県仙崎から出港し祖国に向かう帰国者たちの顔には喜びがあふれていた(1946年) ]
在日100年・祖国光復60周年に
民団は、日本が韓国に実質的な支配体制を敷いた乙巳保護条約の締結が1905年であることから、今年を「在日同胞100年」と位置づけ、歴史資料保存機関「在日同胞歴史資料館」(仮称)の年内開設を目指す。在日100年を体系化するこの待望のアーカイブスには、政治的な信条や所属にかかわりなく、全同胞の歴史が一堂に集約される。民団はまた、光復60周年の記念式典を共同開催すべく朝鮮総連に呼びかけている。民団はなぜ、「100年前」と「60年前」を重視し、全同胞的な和合事業を推進するのか。この二つこそ、同じ歴史を背負った在日同胞の「原点の象徴」にほかならないからだ。
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原点1 1905年
培った共同体意識 日本の抑圧・差別に抗し
起点問う意味
歴史の一般的な定義に照らせば、在日同胞史とは、同胞社会が時間の経過とともに変遷してきた過程であり、出来事の積み重ねである。それにしてもなぜ、今年が在日100年なのか。起点とされるにふさわしい根拠が求められよう。
現在の在日同胞社会に、古代に韓半島から渡来した秦氏のような集団があったわけでも、北米大陸にメイフラワー号で渡航した市民的政治団体のような、今日のアメリカを築く上で大きな影響力を持った集団があったわけでもない。
画期を示す渡来集団がないとなれば、同胞たちによる一定規模のコミュニティーが形成されたと推定できる時期を始まりとするのが筋であろう。
在留同胞数の推移を見れば、当時の内務省警保局の調べで韓日併合があった1910年が790人、同胞が労働力として渡日し始めた11年が2597人、農地収奪のための土地調査事業が終了した直後の18年が2万2451人だ。
財団法人・朝鮮奨学会の沿革によれば、同会は1900年に、旧韓国政府学部が韓国公使館に官費・私費の留学生に対する監督事務を取らせたことに始まる。1906年に業務を開始した在日本韓国YMCAの記録に、当時の留学生数は800人以上とあった。これらは1900年前後に留学生が相当数に達し、一定のコミュニティーを形成していたことをうかがわせる。
この時点を在日史の始まりとする主張がなされても不思議はない。あるいは、現在の在日社会を築いたのは留学生であるよりも、労働者とその後の強制徴用・連行の受難者であるとの立場から、韓国を名実ともに植民地化して就労目的の渡日を増加させた韓日併合時を始発とする見解も当然あり得る。
いずれにせよ1905年以前、以後の時期にも在日の起点を求めることは可能だ。
しかし民団は、〈1905年〉をとった。それは、他のいかなる海外同胞社会とも違って、在日同胞社会は日本による植民地支配がなければ派生しなかったという特殊性を最も重視したからである。
この年、日本が韓国の外交権を奪い、朝鮮統監府の設置を強いた乙巳保護条約が締結された。朝鮮統監府は名目を外交事務の管理に置きながら、実際は内政をも牛耳り併合後の総督府とほとんど変わるところがなかった。実効支配はこの年に始まったと認識されるべきだろう。
ここで、在日同胞社会の特性を際立たせるために、他の海外同胞社会の成り立ちを見ておく。2002年9月に吉林省で「中国延辺朝鮮族自治州創立50周年慶祝式典」が、03年1月にはハワイで「美州韓人移民100周年記念式典」が、04年10月には「韓民族ロシア移住140周年記念式典」がそれぞれ開かれている。
これら海外同胞社会のなかで、歴史的な起点が明確なのは在米だけと言えるだろう。国策による第1次移民の上陸年がそのまま起点になったからだ。実際、移民開始以前の在米同胞は留学生、外交官、商人ら約50人に過ぎず、1903年から1905年までに移民はほぼ7000人に達している。
自意識確立へ
在日、在米はその理由はともかく、海を渡らなければ形成されなかった。鴨緑江、豆満江をはさんで地続きの在中、在ロ同胞とは異なった背景があるのは当然だろう。在中、在ロ社会は1800年代の一連の大凶作によって本格化したというのが定説である。
1881年時点で中国・延辺には1万人が居住し、1900年代初頭には10万人を数えたという。1903年には自らの地域的な自治組織である郷約を設立し、1905年には韓国政府が観察史を派遣、同胞の生命・財産を守る私兵を組織した(李 畛著「中国朝鮮族の教育文化史」。コリア評論者)。在ロ同胞も1811〜2年に朝鮮北部一帯で起きた洪景来の乱にともなう沿海州への流民に始まるとされる(韓国の高校用国定教科書)。
在日同胞は、在米同胞のような国策移民でもなく、在中、在ロ同胞のように植民地化以前から開墾・定住を期したわけでもない。そのいずれよりも植民地支配の影響を色濃く受けて形成された。そうした特殊性がゆえに、植民地政策との因果関係をより鋭敏にとらえ、自分たちの歴史の始まりを特定してしかるべきだろう。始まりを意識することは歴史認識の土台となり、歴史観を自意識にしっかり取り込むことにつながる。
「在日100年」に合わせて設立が推進されている「在日同胞歴史資料館」(仮称)は、在日同胞社会が近いうち、その呼称が死語になるほど変容するだろうとの悲観論から、せめてモニュメントを遺そうとするものではなく、将来の在日社会と韓日関係のために、同胞たちが現在の信条や立場にかかわりなく、歴史観に支えられた自意識を確立する拠り所になるものだ。
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原点2 1945年
「同胞は一つ」思い 対立を超えた扶助精神
海外同胞社会のなかでも在日の際立った特徴は、居住国の国籍を取得しないまま定住するに至ったことであり、南北の政権に対応する形で二大組織が併存し、激しく対立してきたことである。しかし、在日同胞はこの間、同一性より対立性を自ら意識しすぎたきらいがある。
3つの特殊性
在中・在ロ社会と比較すれば、在日社会を規定した条件は大きく三つあることが分かる。
第一は、在中・在ロ同胞社会が植民地化以前から基盤を固めていたのとは異なり、侵略戦争にともなう過酷な植民地政策の影響をもっとも直接的かつ強く受けて派生したこと、第二は、軍国的な国内統治が徹底し、まともな政治・労働運動すら困難な支配国に、なおかつ第三に、多民族国家の中国・旧ソ連とは違って、排他的な単一国家史観にとらわれ、異文化・少数者を排撃する国に形成されたことだ。
解放前の在日同胞社会は、民族派や親日派がいれば、共産主義者や無政府主義者もいて思想・信条は多様でも、在中・在ロ同胞社会のような凄まじい左右対立、革命・反革命の内部葛藤とは無縁だった。同胞たちは酷使・差別の対象とされ、人間性を否定されてきたことから、支配者・日本への対抗を何より優先し、同胞共同体としての絆を何よりも重んじてきたのだ。
だからこそ、解放直後の1945年10月という早い時点で、主な同胞自治組織だけでも300余団体あったにもかかわらず、在日朝鮮人連盟に糾合されるほどのまとまりがあったのである。
40年におよぶ植民地下の生活に耐え、ともに迎えた歓喜の祖国光復。その後も、日本の排外・差別、抑圧・同化の対同胞政策に、ともに抗してきた。在日100年の歴史過程で、解放以前の40年間に培われた共同体意識は、解放後の対立のなかでもそう簡単に消えるものではない。
在日 本然の姿
実際に、民団・総連の対立構造に組み込まれていても、同胞たちの多くが日常生活レベルでは同族としての相互扶助精神を持ち続けてきた。1991年の世界卓球選手権千葉大会で、分断後初めて結成された南北単一チーム「コリア」を共同応援して以来、民団と総連の地方レベルの交流・和合事業が継続しているのも何ら不思議はない。それは敬老会などの福祉・親睦行事からハナ・マトゥリなどの大規模祝祭にまでおよぶ。
昨年は民団・総連の大阪本部が合同で、大阪市立大と府立大に、外国語選択科目に韓国・朝鮮語を採用するように要望した。両兵庫本部も合同で、台風23号の被害にあった豊岡市と西脇市に義援金を伝達した。こうした合同行動が両組織の中央レベルでも実現する条件は積み重ねられている。
二つの大きな節目は、在日同胞に自らの歴史を振り返らせる。それは自ずと、在日社会が本然として培ってきた共同体という原点を意識させるはずだ。
(2005.1.1 民団新聞)