掲載日 : [2018-02-14] 照会数 : 5596
<寄稿>歴史が生んだ文化を伝える…鄭喜斗・同館学芸部長(鄭詔文 長男)
[ 美術館開館記念日の鄭詔文さん ]
30周年迎える高麗美術館展
創立者・鄭詔文 在日が守る古代の美
京都市北区の片隅に「高麗美術館」が誕生して今年10月25日に30周年を迎える。
在日朝鮮人・鄭詔文が6歳の時に渡日し1989年に世を去る70歳まで、決して朝鮮半島の土を踏まなかったその一途なまでの信念は、「朝鮮の文化は一つである」という思いからであった。季刊誌が前身
高麗美術館の前身は1969年発刊した季刊誌『日本のなかの朝鮮文化』であった。朝鮮またはその文化は、日本古代史の一部分、ないしは微細なものとして扱われてきているにすぎなかった時代。それを「朝鮮文化を軸にして発言する」という季刊誌を目指した。たやすく受け入れられる時代ではなかった。
歴史の常識を打ち破る、そんな物語がここには隠されている。鄭詔文は日本各地の渡来人遺跡の旅先で、地方の学者や研究家、社寺の宮司、住職といったひとびとにずいぶんと会っている。そうしたひとびとは、多くの歴史の矛盾を説いた。
「歴史体質」の壁
ところが季刊誌に載せたいと執筆を依頼し、原稿をもらってみると、従来の歴史書と変わるところがなかった。むしろより肩をいからせたものとなっていた。
『日本のなかの朝鮮文化』はこの様な日本人の「歴史体質」ともいうべきものに正面からぶつかった。それは歴史学という「権威」であった。
そんな状況を変えたいという鄭詔文、金達寿、李進熙の熱意の周りに上田正昭、司馬遼太郎、林屋辰三郎、森浩一、岡部伊都子、有光教一、直木孝次郎といった日本の古代史、考古学者、小説家、随筆家が集まり、やがて権威の壁を乗り越えて、この奇跡的な季刊誌を生み出したと言える。
しかし鄭詔文の心にはとけない問題を抱えていた。歴史を正すには「その歴史が育んだ独自の文化」を伝える美術館を持たねばならない。
「日本の各地には、公私ともに立派な美術館、博物館が多い。伝統を重んじ、文化を差立て(文化と文化を比較して特徴を活かしながら)華開かせる努力がうかがえるし、外国の文化遺産も大切に守り伝えられている。しかし、朝鮮文化のそれはどうであろうか。 数年前にできた上野の東京国立博物館東洋館の3階に朝鮮美術を常設する一室が設けられ、駒場の民芸館の一隅にも常設されてはいるが、独立した朝鮮美術館は一つも存在しない。
絵画にしろ、陶磁器にしろ、そのほか仏像、石造美術、木工芸品など、つくられた〞もの〟にたいしてはいつくしみ尊ばれながら、それらの背景になっている風土や人間のあることはすっかり忘れられているのではないか。中国やヨーロッパの美術品、考古遺物に比して質、量ともに決して劣るはずのない朝鮮の文化遺産には正当な場があたえられない無念さから、いつかそれをつくろうという夢を追うようになった。」(鄭詔文「朝鮮美術館への夢」朝日新聞、1973年12月7日記事より)
白磁との出会い
祖国への帰路をあきらめた朝鮮半島の分断のさなか、京都三条縄手を歩いて偶然であった「白磁の壺」。初めて朝鮮の古美術に触れた衝撃は、彼の人生を一変させた。白磁の輝きは数百年経っても失わずにいた。この「白磁の壺」をもう一度在日の手で守れる場所を作りたい。白磁の壷に出会ってから40年余。1988年10月に「高麗美術館」は開館した。
9月から特別展
この度の高麗美術館30周年記念特別展「鄭詔文と高麗美術館」(9月1日から12月11日)は鄭詔文が最初に出会った「白磁壺」、「帆船文壺」、そして麗しき「朝鮮の美」の数々の名品、約80点をそろえて展示します。
(2018.2.14 民団新聞)