崔承喜(チェ・スンヒ/さい・しょうき/1911年~1969年)、「半島の舞姫」のニックネームで、朝鮮、日本のみならず、世界を魅了した舞踊家である。また、古典舞踊と現代舞踊を融合した「新舞踊」という新しいジャンルを確立させ、朝鮮舞踊の発展に尽くした先駆者だ。彼女の華やかな舞踊家としての人生と、日帝による植民地時代、そして祖国分断による越北と、時代に翻弄された激動の人生を振り返ってみる。
世界で公演 多くの著名人も魅了
音楽学校に進めず
崔承喜は、1911年11月14日、京城府(現在のソウル、江原道洪川郡生まれの説もある)の裕福な家で生まれる。父の崔ジュンヒョンは、漢学者で家に漢文書堂を設置し、洞内の子どもたちに漢文を教える朝鮮時代の典型的なソンビ(学者)だった。
そのような父親の影響を受けた承喜は淑明女学校普通科と淑明高等女学校を卒業した。だが、順調だった生活は淑明女学校時代には家計が傾き、奨学金を受けながらようやく学校に通うばかりか、その日の食事にも事欠くほど貧しいものとなった。
淑明女学校を卒業した後、教師は承喜に音楽の才能があることから、東京の音楽学校に進学するように勧めるが、年齢に達していないという理由で、入学許可が下りなかった。
すると、承喜は貧しい家庭を助けるために教師として就職しようと京城師範学校の入学試験を受け合格をするが、やはり入学年齢に達していないという理由で合格が取り消されてしまう。
韓日往復し新しい形作る…映画など幅広く活動
承喜は、この知らせを聞き大きく落胆したが、兄、承一の勧めでモダンダンスの第一人者である石井漠の門下に入るため日本に渡る。石井漠の舞踊団に入団した崔承喜は、めきめきと才能を発揮し、次第に頭角を現す。しかし、石井漠の舞踊団は経営が悪化しきたことから、承喜は舞踊団をやめて京城に「崔承喜舞踊研究所」を開設し舞踊活動を始める。
そのようななか、承喜の夫である安漠(アンマク)が日本の警察に拘束され、また、承喜は、妊娠、出産後の後遺症で、急性胸膜炎まで患い、経済的に困窮すると、最終的に師匠石井漠の元に戻り日本で再度活動することになる。
その後、石井漠から独立し、1932年には日本で初の単独公演を行う。その同時期に安漠の手腕により、「崔承喜後援会」を結成。後援会には独立運動家の呂運亨、朝鮮最初の児童寓話作家の馬海松、作家の川端康成らの大物も名を連ねるなど、朝鮮舞踊の近代化という志向を持った彼女の踊りは、朝鮮人だけではなく多くの日本人も魅了した。
承喜は地方の舞踊家や妓生(キーセン)から伝統舞踊を熱心に学ぶ程の熱意があったという。そして伝統舞踊と現代舞踊を融合させた新しい舞踊形式の「新舞踊」を確立する。今日の韓国と北韓、中国の舞踊界に、彼女が及ぼした影響は至大であり、事実、韓国の本格的な現代舞踊は崔承喜から始まったと言っても過言ではない。
承喜は舞踊活動の傍ら映画にも出演した。特に1936年の舞踊映画「半島のダンサー」は、監督・俳優も日本人という日本映画。劇映画の評価は低かったものの承喜のアイドル的な人気のおかげで、4年にわたるロングラン上映となり、興業的には大成功だった。
同年には自伝「私の自叙伝」を出版、さらには「イタリアの庭」というアルバムを出すなど、幅広い活動を展開していく。
1930年代後半からは、米国、欧州、南米などで巡回公演を行うなど、活動の舞台を世界に広げていく。アーネスト・ヘミングウェイ、ゲーリークーパー、チャーリー・チャプリン、パブロ・ピカソ等の著名人が、彼女の公演を観覧する程の人気だった。
また、承喜は音楽にも造詣が深く、特にリズム感覚が非常に敏感で優れていた。舞踊の練習中に伴奏の伽耶琴奏者がミスをすると、踊るのを止め、演奏者にミスの部分を指摘するほどだったという。
独善的な性格と批判も
一方で、承喜は舞踊家として成功した後、金銭的な問題においては「ケチ」という言葉を聞くほどお金に非常に細かく、これにより兄弟たちの間でもお金の問題でもめ事がよく起こったという。
その半面、承喜本人は、過度なほど贅沢をし、夫や周りの人たちが自制するよう何度忠告してもその習性は絶対に変わらず、北韓に渡った後も治らなかった。
承喜は本人の実力と、その名声に比べ、人間性は日本植民地時代当時や、解放後に渡った北韓でも、非常に独善的であると多くの批判を受けた。
あるインタビューで、「ファンレターは適当に見て投げ捨てる」と平気で言ったり、当時の公演観覧マナーに慣れていなかった朝鮮人の観客が、公演観覧の間に音を出すと、踊りを中断して、静かにするよう怒鳴ったなどの逸話があるほどだ。
北へ渡りVIP待遇…一転失脚
1946年5月、米軍占領下の朝鮮南部(現在の韓国)へ戻った承喜は戦争中、日本軍の部隊慰問公演へ協力したことなどをあげつらわれ、思わぬ批判を浴びてしまう。 承喜本人は、自分の親日行為をそれなりに反省したものの、国内で自分への世論がここまで悪化しているとは全く想像していなかった。
そのころ夫の安漠は、平壌へ越北している。安漠は日本統治時代、左翼色が強い「朝鮮プロレタリア芸術同盟」のメンバーとして活躍。中国で地下活動をしていた朝鮮独立運動組織ともつながっていた。越北した安漠は、密かに韓国に降りてきて承喜に越北を勧めるが、承喜は越北について懐疑的であった。
安漠は「ここにいれば、あなたが行く所は刑務所しかない。私と一緒に北に行くと女王のようにもてなしを受け取る」と脅迫まがいに承喜を説得した。
承喜は、安漠の続く説得と脅迫、そして、自らの「親日派」容疑を打ち消すために、最終的に心を変えて越北する。
結論として承喜の越北は、自分が親日民族反逆者に断罪されることに対する恐怖と、より良い条件で活動したい欲求に起因するものであったのが正確だといわれる。
粛清? 57歳の最期は不明
越北した承喜に対し、金日成は、これまでの功績を称え功勲俳優称号を贈る。また、「崔承喜舞踊研究所」を平壌に建て、彼女を所長に据えた。さらには研究所の収入を全て承喜がもらうなど、VIP級の待遇を与えた。
承喜はこのような待遇に応えるため、朝鮮民族の舞踊を体系化し、金日成の意向に沿うような作品も創作した。そしてやがては北韓の文化芸術全般を仕切る立場にまで昇り詰めてゆく。
だが、栄光は長くは続かない。承喜ほどの大スターであっても、所詮「日本とつながりがあった人物」が信用されることはないのだ。礎さえ築いてくれれば後は邪魔者になる。
1958年、夫の安漠が米国の固定スパイとして逮捕される。安漠の逮捕後、家宅捜索をしたときに、金、銀、宝石、美術品、骨董品等の贅沢品がたくさん出てきたことから、承喜はブルジョア的な舞踊家と批判される。
そしてこの時、安漠は、米国のスパイという濡れ衣を着せられ、粛清されたと推定される。
同年10月、金日成は、論文の中で、承喜のことを「個人英雄主義」と厳しく批判する。背景には金日成による政敵粛清の嵐に巻き込まれた夫、安漠の失脚の影響もあった。
要職から外された承喜が命じられたのは、1959年から始まった朝総連による北送事業で北韓へ着いた在日朝鮮人の歓迎委員だった。そこでは広告塔としての「崔承喜」の名前もまだ利用価値があったからであろう。
そして、決定的な失脚が伝えられる1967年までに、承喜は「文芸総中央委員」、「舞踊家同盟中央委員会委員長」などの肩書で活動したが、すべて実権がない名誉職であり、1960年代以降、舞台出演は目に見えて減少した。
そして、1969年、57歳で死去した。粛清されたとみられるが、どのように最期を迎えたのかはよくわかっていない。
2003年、北韓で突然、一般人として最高の栄誉である「愛国烈士陵」に葬られていることが発表された。前年には小泉総理の訪朝によって日本人拉致を認めたことから、北韓による対日宣伝だった可能性もある。
さて、北韓はなぜ崔承喜を粛清したのか?
崔承喜が粛清された時期は、北韓が文化芸術分野で復古主義と封建主義の残滓を根絶させるための一大粛清と取り締まりを強化していた時期と同じである。
さらに、金正日は労働党宣伝扇動部において文化芸術部門を指導しながら、後継者としての地位を確立した時期でもあった。また、共産主義に関心を持って北韓に来た韓国で有名な多くの芸術家も粛清を迎えた。
承喜もこの粛清の激しい風を避けることができなかったのではないだろうかと考える。
さらに、承喜は、1954年に北で人気を呼んだ舞踊劇「使徒性の話」をはじめとする全ての作品に赤い思想が殆ど入っていないことからも粛清の対象になったのではと考える。
時代に翻弄された「伝説の舞姫」、崔承喜。今日の韓国舞踊にもたらした影響は多大である。
崔承喜の主な作品
「草笠童」「花郎舞」「チャンゴチュム」「天下大将軍」など。
娘(右)と北韓で撮影された写真
(2021.01.01 民団新聞)